礼拝賛美において気を付けるべきこと

 

賛美曲の歌詞の意味を理解する

特に古い文語体の「讃美歌」「聖歌」などを歌う時、多くのクリスチャンが歌詞の意味をよく理解しないまま歌っているようです。

それらの曲の一部は現代訳されたりもしていますが、なお古い翻訳にこだわっている人もいます。

もとから現代語である「プレイズソング」「ワーシップソング」と呼ばれる賛美曲を用いれば問題ないですが、もし何かの理由で文語体の曲を歌おうとするならば、最低限、歌詞の内容を理解(説明)してからにすべきです。

形骸化した、”何となく”歌っているような賛美を神様は喜ばれないでしょう。

 

告白している歌詞を実践する

「 ♪~信じます」「♬~従います」「♩~宣べ伝えよ」・・・などの歌詞を歌いながら、普段の信仰生活において、まったくそうしているように見えない信徒がたくさんいるようです。

自分の口で歌っておきながら、その告白している歌詞は他人事のようで、これでは歌うたびに神様の前に嘘をついているようなものです。

 行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であることを肝に銘じる必要があります。

 

「賛美」の本質を理解する

 賛美とは、神様をほめたたえること(もの)なので、別に歌・音楽でなくても良いのです。しかしいつの間にか「賛美」≒「音楽」のように捉えられていて、神様をほめたたえることより、音楽を(自分のために)楽しむことがメインになっているケースがあるようです。

聖霊様の臨在はあってほしいですが、「自分(人間側)が満たされる」ことは、賛美の本質から考えると重要ではありません。賛美の結果として臨在があり、満たされることは良いですが、自分が満たされることが目的になっていないか、注意が必要です。音楽には十二分に快楽的要素がある点を忘れてはいけません。

 

ある牧師は、教会で(信者の)誕生日会があるたびごとに「~それでは、〇月生まれの〇〇さんのために『ハッピーバースデー トゥー ユー』を賛美しましょう」と言っていました。

私が2度ほど「ハッピーバースデー~」は賛美(曲)ではありませんよ」と諫めましたが、一度だけ改めただけで、その後も「ハッピーバースデー~を賛美」と言い続けました。

残念ながら、その牧師にとっては「賛美」とは神様をたたえることではなく、単に「歌を歌うこと」程度の意味しかなかったようです。

異教徒は地獄行き、と神は、ほんとうに言われたのですか?

最近よく聞かれるのが、「聖書に〇〇と本当に書いてありますか?」「イエスは本当にそう言われたのですか?」という言い回しです。

 

例えば、

聖書に「異教徒は地獄行き」と本当に書いてありますか?

聖書に「座禅を組んで瞑想してはいけない」と本当に書いてありますか?

聖書に「ヒューマニズムは罪」と本当に書いてありますか?

エスは本当に「同性愛は罪」などと言われたのですか?

 

この質問に共通する“狙い”は、罪や罰の否定であり、受容です。つまり、

「異教徒のままでも天国に入れる」

キリスト教に、座禅などの異教行事を取り入れても良い」

ヒューマニズムによる一致運動(エキュメニズム)は良い」

「同性愛を改めなくてもクリスチャンになれる」

と主張したいわけです。

 

創世記の蛇(サタン)にそっくりです。


創世記 3:1

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

これらの主張をする人々に、いくつかの聖句を上げてみせると、「『いきょうとはじごくいき』『どうせいあいはつみ』とは(そっくりそのまま)書いていない」とか「その時代の〇〇と現代の〇〇とは意味が違う。似ているだけ」というような屁理屈をつけてきます。

 

そもそも聖書に、いちいち時代・地域・文化等に合わせた用語を用いて、あれはダメこれは良いなどと個別には書いていません。

「おうむしんりきょうににゅうしんしてはいけない」

「えんじょこうさいはつみ」

「いんたーねっとで、あだるとどうがをみてはいけない」

 

・・・文字通りそう書いてなくても、聖書全体を読み、聖霊様によって神様のみこころを知っていれば、何が良いか悪いか、判別できるのです。

 

サタンとその従者の「誘惑」に騙されないようにしましょう。

 

カトリック信者ががいかに聖書とかけ離れたことを信じているか

一般的プロテスタント(広義の福音派)のクリスチャンが、日常、カトリック信者と出会い、会話をすることはそうそうないでしょう。

 

それで「カトリックも多少違うところがあっても、同じキリストを信じる兄弟」のように思い込んでいる人が多いようです。

 

そういう人は、是非「ヤフー知恵袋」のカトリック信者たちの質疑応答を、いくつか閲覧してみてください。

彼らがいかに聖書とかけ離れたことを信じているのか、とてもよく分かります。全くの不信者と同じ「曲解」を堂々と主張しています。

 

新生している福音派クリスチャンであれば、それらを見て「開いた口が塞がらない」状態に陥ることでしょう。

 

罪深く、可哀想です。 

 

・・・どうか、カトリック信者が心から罪を悔い改めて、“本物の”イエス・キリストを信じ、天国に行けるように、とりなし祈ってください。

聖書は一日何章読んだらいいか?

聖書は旧約が929章、新約が260章、合わせて1189章あります。

ということは、

一日1章ずつ読むと、1189日(3年3か月強)かかります。

以下、

一日2章ずつ読むと、595日(1年8か月弱)

一日3章ずつ読むと、397日(1年1か月強)

一日4章ずつ読むと、298日(10か月弱)

一日5章ずつ読むと、238日(8か月弱)

となります。

 

あまり長い期間をかけると全体像がつかみにくいですし、前に読んだことも忘れがちですので、1年に一回は通読したいです。

すると、一日に3章、時々4章読めば、なんとかイケます。

 

読むこと自体が目的にならないように気をつけましょう。

読んでも信じなければ(都合の良い箇所のみを信じるだけなら)、ほとんど意味はありません。

また、信じても従わなければ、それは死んだ信仰です。

「三位一体さえ信じていれば正統派」という嘘

多くのクリスチャン(牧師・信徒問わず)が、「三位一体を認めていれば正統的キリスト教であって、異端ではない」と思い込んでいます。

 

この考え方は、いつの間にか何者かに騙されているのです。聖書で「異端とは三位一体を否定する者である」とは定義されていません。

聖書的でないキリスト教徒たち(宗教家)が、勝手に定義したものを、福音主義のクリスチャンたちも、いつの間にか基準にしてしまっているのです。

 

三位一体を信じていても、他の主要な教えで聖書に反していれば、それは「異端」であり、偽りの福音です

 

聖書では、正しい教えに留まるように、間違った教えに惑わされないように、再三再四警告しています。特に、

第一コリントでは、<人につくこと、人間を誇ること、不品行・偶像礼拝、復活>

第二コリントでは、<にせ使徒による別のイエス、異なった霊、異なった福音>について。

ガラテヤ書では、<ほかの福音、ユダヤ教、行いによる救い、悪いパン種、肉を誇ること>について。

コロサイ書では、やはり<ユダヤ教、行いによる救い>について。

第二テサロニケでは、<背教、不法の人、サタンの働き>について。

第一テモテでは、<空想話・系図、惑わす霊・悪霊の教え、禁欲主義、霊知>

第二テモテでは、<健全な教えに留まること、復活の否定、終わりの時代の困難、悪人・詐欺師、空想話>について。

テトスでは、<反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者、系図、分派>について。

ヘブル書では、<堕落、信仰・訓練>について。

第二ペテロでは、<私的解釈・曲解、にせ預言者、にせ教師、作り事のことば、バラムの道>について。

第一ヨハネでは、<反キリスト、惑わそうとする人たち、悪魔のしわざ、にせ預言者、偽りの霊、命令を守ること、偶像>

第二ヨハネでは、<惑わす者、反キリスト>について。

ユダでは、<ひそかに忍び込んで来た者、カインの道、バラムの迷い、不敬虔な者>について。

黙示録では、<使徒と自称している者、ニコライ派、ユダヤ人と自称している者、サタンの王座、バラムの教え、イゼベル・預言者と自称している者、サタンの会衆、悔い改め、竜・獣・にせ預言者、大淫婦>について。

 

・・・これほど警告されているのに、悪い教えに対し無防備・無関心なクリスチャンが多すぎます。

特に、牧師がこの世や人間に迎合しているため、すでに悪い教えが次々教会に忍び込んでいます。

 

ローマ・カトリック教会、リベラル派、エキュメニカル派の非聖書的な悪い教えに気をつけてください。

「天国」「地獄」の聖書的段階について

一般に「天国」「地獄」という言い方をされますが、これはかなり大雑把な名称です。

 厳密には、

☆「天国」は3段階に分かれています。

①「パラダイス」:死後キリスト信者が行くところ。楽園だが体はまだない。

ルカ 23:43

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

②「千年王国」:キリスト再臨後に現れる、キリストが治める地上の楽園。おそらく回復されたエデンの園のようなところ。復活したキリストと同じ「栄光の(新しい次元の)体」が与えられる。

黙示録 20:1~9

 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。  また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

 

③「新天新地」:最後の大審判の後に再創造される、全く新しい天と地(永遠に続く天国の最終型・完成型)。神の住まい。 「千年王国」と同じ栄光の体がある。罪は一切存在しない。
黙示録21:1~4

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

 ★「地獄」は2段階に分かれています。

①「ハデス」:よみ(黄泉、陰府)とも言われる、死後不信者の行くところ。苦しみの炎の中。体はない。

ルカ 16:23~25

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 

②「ゲヘナ(「天国」の③に相当)」:火と硫黄の燃える池。最後の大審判の後に、不信者が送られる永遠の刑罰の場所、最集型。体がある。すでに裁きを受けた悪魔・悪霊がいる場所。

ヨハネ 5:27~29

 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。 

 黙示録20:10~15

 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

現時点では、キリストを信じると「パラダイス」に行き、信じないと「ハデス」に行く、というのが正確な言い方です(千年王国、新天新地、ゲヘナはまだ現れていない)。

・なお、主イエス・キリストを信じるとき、その人の心の内から「天国(神の国)」が始まります。この地上において「天国の前味」を感じることができるのです。

・また、死んだあとで行き先を変えることはできません(いわゆる死後のセカンド・チャンスはありません)。今の世で生きているうちに、信仰によってどちらかを選ばなくてはならないのです。

カトリック教会が主張する「煉獄」は聖書の教えではありません。

 

たまにクリスチャンでも「私は天国に行った」「地獄を見てきた」という霊的体験談をされる方がいますが、ほとんど上記のような「段階」的区別がありません。実際にそこ(そうであれば理論上「パラダイス」か「ハデス」)へ行ったのか?そのようなものを(まだ存在しない「新天新地」や「ゲヘナ」を時間を超えて預言的幻として)見せられただけなのか?等、極めて曖昧です。

聖書的検証がきちんとできないような個人体験は、せいぜい参考程度に留めてください。

聖霊の3つの別体験(新生、満たし、賜物)と教派による対応の違い

聖霊なる神様はお一人ですが、信者にもたらす働きには、大きく分けて3種類あります。

 

内住(新生)・・・救いのために必要。人生で一度の体験(棄教しない限り、失われることはなく、持続される)。

聖書に書いてあるとおりに、罪を悔い改め、キリストを主と信じた際に、その信じた人の心の中に聖霊なる神様が住まわれること。信者自身の霊(本質)が新しく生まれ変わること。救われた証拠(救いの確信をもたらす)。

 

ヨハネ3:3~5

エスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 

ローマ 8:9

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

Ⅰコリント12:3

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません

 

Ⅱコリント1:22

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

 

エペソ1:13~14

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 

ヨハネ 4:13

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 

満たし(聖化)・・・神様への思いや臨在に特にあふれること。さらに、実際に聖く生きるため、成長して豊かな実を結ぶために必要。人生で何度もある(求め続けるべき)体験。

すでに新生したキリスト者が、罪や悪に負けないで神の御言葉を実践して生きて行くため、キリストの似姿に変えられて行くために、聖霊の力(助け)が与えられること。

 

使徒 1:8

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

ローマ8:4

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 

Ⅱコリント3:18

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

ガラテヤ5:16~23

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 

エペソ5:18

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 

特別な賜物・・・なくてはならない訳ではないが、あるに越したことはない。人生において一度の体験。

特別な能力が与えられること。

 

Ⅰコリント12:8~11

 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

 

「①新生(内住)」なくして「②満たし」「③特別な賜物」を受けることはありません。「新生」はすべての信者の基本です。

 

「①新生(内住)」と同時に「②満たし」を受けることは十分あります。

さらに「③特別な賜物」も同時に受けることはあります。

 

「②満たし」がないのに「③特別な賜物」を受けることはないでしょう(特別な賜物には、満たしが伴う)。しかし「満たし」を受けても「特別な賜物」を受けないことはあります。

 

「満たし」は一度きりのものではありません。常に求め続けることで、キープすべきものです。一度(一時)満たされたから、満たされ続けるというものではありません。

 

 

<教団教派による見解の違い>

A.狭義での「福音派」(きよめ派・聖霊派以外の福音派。改革派、ルター派、バプテスト系など)

①「新生(内住)」は認めています。

②「聖め」は「救い」と同義で、新生と同時に聖めも受け、完了したと考えています。

「満たし」がないので、御言葉を実践する力(あるいはその意志)がほとんどなく、”救われてよかったね”で終わってしまっています。

③「賜物」に関しては、以下の聖句の「完全なもの」を「聖書を指している」という解釈に基づき、「使徒の時代のみあったが、もう終わってしまい、現在はもう(賜物は)ない」と考えています。

Ⅰコリント 13:8~10

 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

 

しかし、この聖句の「完全なもの」は聖書を指しているのではなく、「天国での神・キリスト様との出会い」を指しています。続く以下の聖句からそれが明らかです。

 

Ⅰコリント 13:12

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

B.きよめ派(ホーリネス、インマヌエル、メソジスト系など)

①「新生(内住)」②「満たし(聖化)」の両方を認めています。

 

C.聖霊派(ペンテコステ派、カリスマ派、第三の波/途中から聖霊派に転向した個人及びグループ)

①「新生(内住)」②「満たし」③「賜物」の3種を認めています。

ただし、②は、感覚(神の臨在体験)的な面が強調され、聖く生きるという面はやや弱いです。

何より③を強調しています。

②と③をきちんと分けて理解している人は少ないと思われます。

 

 

ちなみに聖書の「聖霊バプテスマ」という言葉が何を指しているか?もまた教団教派によって見解が分かれるところですが、おそらく②「聖霊の満たし」のことを指していると思われます。

私自身は長く聖霊派にいましたので、「聖霊の賜物(とくに異言)」を「聖霊バプテスマ」と教わり、そう思ってきましたが、最近もう一度ピュアに聖書を研究してみた結果、「聖霊の満たし」を「聖霊バプテスマ」と呼ぶ(定義する)方が、理にかなっていると判断しました。

(ただし「聖霊バプテスマ」という言葉がどちらを指すかの論争は、不毛であり、あまり意味がないでしょう。)

 

狭義の福音派の大きな問題点は、「聖霊バプテスマ」を「聖霊の内住(新生)」と勘違いしていることです。「聖霊バプテスマ」は明らかに「聖霊の内住(新生)」とは別の体験です(「聖霊の満たし」を指すにしても「聖霊の賜物」を指すにしても)。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「満たし」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒4:8

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 

使徒4:31

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 

使徒6:3~5

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

 

使徒7:55

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

 

使徒9:17

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 

使徒11:24

彼(=バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

 

使徒13:9

しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

 

使徒13:52

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 

ローマ15:13

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「賜物」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒8:14~18

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

(*御霊が与えられるのを「見た」ことに注目。つまり目に見える現象があった。ここではおそらく「異言」の賜物)

 

Ⅰコリント12:31

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 

Ⅰコリント14:1

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

Ⅰコリント14:12

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

 

 

福音派は自分が知らない(体験していない)ことに関して、それを体験している「きよめ派」「聖霊派」から、謙遜な心で学ぶ必要があります。

分からないことは素直に「分かりません」というべきであり、「ない」「終わった」「彼らは間違っている(異端だ)」などと言ってはいけません。それは高慢の罪に他なりません。

一方、聖霊派の中には「霊的な現象」を聖書より優先し、きちんと判断せずに「霊的なことをなんでも受け入れる」悪い傾向を持っている人達がいるのも事実です。そういう人たちは、必要なことに関しては、福音派から学ぶ必要があるでしょう。吟味の欠如した「いい加減な聖霊派」では、福音派の人をつまずかせるだけです。