一度信じても、救いを失うことはある

聖書を普通に読めば「一度信じても、救いを失うことはある」と書かれています。

 

信仰というのは、そもそも「一度信じた」とか「過去に信じた(受け入れた)」というものではなく、「継続されるべき」ものですから、自ら途中で信仰をやめたら、救いも当然失われます。

 

他にもいくつもありますが、以下の聖句がもっとも明確に書かれている箇所です。

ヘブル6:4~6
 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

ヘブル10:26~39
 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

ところが、「信仰義認」という教理(神学)ばかりに固執する人たちは、「一度信じた者を神様が捨てるはずはないし、救いが取り消されることはない」「もし、信じたはずの人が天国に入れなかったら、それは最初から(実は)信じ救われていなかったのだ」と解釈します。

 

しかしこの解釈には、「(神様の方から人間を捨てることはないが)人間の方から神様を捨てることがある」という側面を無視しています。

 

そしてこの解釈で行くと「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」ということになり、「実によって、本物と偽物の信者を見分けなさい」という聖書の教えが無意味になってしまいます。

 

教会の中で「牧師先生」とか「〇〇姉妹」「△△兄弟」と親しく交わっている人たちも、「実は救われていない未信者」かもしれない、ということになります。

 

確かに「初めから救われていない(実は)未信者」がクリスチャン・兄弟姉妹と呼ばれている場合もあるでしょう。

しかし、すべての信者が「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」(信者か未信者か見分けのつかない)“謎信者?!”ではないはずです。

初めは熱心に信じていたのに、途中でそれをやめる信者が居るのです。

 

エス様も黙示録2:4~5で、エペソ教会の信者にこう言っています。

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 

また、人間の罪の性質(深さ)の面から考えた時、「一旦救われたら救いを失うことがない」と思っていると、信仰的に停滞・後退する可能性が高く、不信仰(不従順)な信者を生み出す結果となります(現実そうなっているように見えます)。

 

ちなみに、上記のへブル書の聖句を「単なる警告にすぎない」と捉えているようですが、旧約聖書の「祝福と呪い」の警告が、実際にバビロン捕囚等で実現していることを考えると、このへブル書の聖句を「単なる警告」と取るのは無理があります。

 

この神学が支持される他の理由として、牧師は「信者を安心させたい」「信者が好むような(易しい)ことを言いたい」傾向があるから、とも言えます。


もっと詳しい解説は、以下のリンク先、モリエル・ジャパンの「救われたら滅びないのか」をクリックすると.pdfで読むことができます。https://morieljapan.org/article/

イエス・キリストの死・復活・昇天に関する預言(聖句)

旧約聖書での「復活」の預言
詩篇2:7

「わたし(=イエス)は主の定めについて語ろう。主(=父なる神)はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。


使徒13:33(新約聖書での引用)

神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。


ヘブル1:4~5(新約聖書での引用)

御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

詩篇16:10

まことに、あなた(=父なる神)は、私(=イエス)のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。


使徒2:27(新約聖書でのペテロによる引用)

あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。


使徒13:35(新約聖書でのパウロによる引用)

ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』

 

旧約聖書での「あがない(十字架で死ぬ意味)」の預言
イザヤ53:4~12

まことに、彼(=イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


マタイ8:16~17(新約聖書での引用)

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
 

ルカ22:37(新約聖書でのイエスによる引用)

あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」


使徒8:32~35(新約聖書でのエチオピアの宦官による引用)

彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。


申命記21:23

その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

ガラテヤ3:13(新約聖書での引用)
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

 

旧約聖書での「昇天」「支配」の預言 
詩篇68:18

あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。

エペソ4:8~10(新約聖書での引用)

そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──

詩篇8:5~6

あなたは、人を、神(*別訳「御使い」)よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。


Ⅰコリント 15:27a(新約聖書での引用)

「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。


ヘブル2:7~9(新約聖書での引用)

あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 
詩篇2:8

わたし(=父なる神)に求めよ。わたしは国々をあなた(=イエス)へのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」


黙示録2:27(新約聖書での引用)

彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。


黙示録12:5(新約聖書での引用)

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。


黙示録19:15(新約聖書での引用)
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

✩イエスご自身による「死」と「復活」の預言
ヨハネ2:19~22

エスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

ヨハネ8:28

エスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。


ヨハネ10:11~18

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」


ヨハネ11:25

エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。


ヨハネ12:32~33

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。


ヨハネ14:28~29

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。


ヨハネ16:19~22

エスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

 

マタイ12:39~40
 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。


ルカ11:29~30(並行記事)

さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。

 

マタイ16:21

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。


マルコ8:31(並行記事)

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。


ルカ9:22(並行記事)

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

 

マタイ17:22~23

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。


マルコ9:30~31(並行記事)
さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。


ルカ9:44(並行記事)

「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」


マタイ20:18~19

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」


マルコ10:33~34(並行記事)

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」


ルカ18:31~33(並行記事)

さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 

✩イエスご自身による「あがない(十字架で死ぬ意味)」の預言
マタイ20:28

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」


マルコ10:45(並行記事)

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」


ヨハネ3:13~15

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

✩イエスご自身による「あがない」「復活」成就後の言葉
ルカ24:25~27

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ルカ24:44~48

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。

書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋④

NAR(新使徒的改革)は、神様を信じているのではなく、神様を「利用」して自己(自分の願望)実現を図ろうとしています。

言い換えるならば「人間が神様に聞き従う」のではなく、「神様を人間(の思い通り)に聞き従わせる」ことを目的としている、という感じです。

 

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以下、書籍より抜粋。

P52

人々は、聖書のみことばに飢え渇いて、トロントの教会に集う訳ではない。彼らはあくまでも新しい刺激、新しい霊的体験、良い気持ちになることを求めているのだ。

 

P54

ありとあらゆる出来事を無理矢理に「霊の戦い」に結びつけることは、NARムーブメントの渦中にいる人間の特徴だと言えよう。一般の人に見えない霊の世界の秘密情報を把握しているとか、霊の世界に通じているから歴史の流れを予測する力があるとか、天に連れて行かれて特別な霊的な体験をしていると、自らの優越性を強調する。

 

P55

ビル・ジョンソン氏はクリスチャンの本来あるべき姿について、次のように述べている。

「私たちは神の証し人として存在しています。この証しとは、『現わす』ということで、具体的には神を『再現』することを意味しています。それゆえ、力無くして神を再現することは、大きな不足となるのです。神にとって超自然は当り前のことなので、その力を現わすこと無しに神の証しをするということは、実際には不可能です」。

 

P57~58

NARの指導者たちは、伝道して行く上で、奇跡は欠かせないとしている。

(中略)

今後、見られるようになる奇跡として、次のようなことが起こるそうだ。

〇建物に手を置いただけで、病院の患者が全員、癒される。

〇洪水で氾濫した川の流れを、一言で変えてしまう。

(中略)

〇キリストの5千人の給食の奇跡のように、日常的に祈りだけで食べ物を増やす。

(中略)

更に、使徒たちや預言者たちは、いよいよ大きな力を持つようになり、ついに死なない人間になる、という。

書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋③

NAR(新使徒的改革)は、建前は「聖書のみ」と言っていますが、実際は「聖書ではなく、絶対的な権力者である私たち(自称)使徒預言者に聞き従え」と主張しています。

 

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以下、書籍より抜粋。

P35~36

NARの使徒たちは、自分のネットワークにおいて、絶対的な権威を持つ。新約時代の使徒たち、あるいは旧約時代の預言者たちと同等の権威を持つとされるから、彼らの言うことはすべて、神の言うこととして受け止められる。

(中略)

逆らう者は、「裏切り者」、「聖霊を消す者」、「一致を乱す者」、「悪霊に取りつかれた者」とレッテルを貼られる。また、使徒に従わない人間に対して、脅しの言葉が飛ぶ。悔い改めない場合、「神に裁かれる」、「病気になる」、「家庭に不幸なことが起こる」、「交通事故で死ぬ」と言われるのだ。

 

P38

更に、初代教会の指導者たちとNARの使徒たちの生活を比較しても、その差は歴然としている。高級車を乗り回し、豪邸に住み、どこへ行ってもVIP扱いを受けるNARの使徒たちに対して、パウロは自分の生活の厳しい現状を次のように述べている。
「今に至るまで、私たちは飢え、渇き、着る物もなく、虐待され、落ち着く先もありません。また、私たちは苦労して自分の手で働いています。はずかしめられるときにも祝福し、迫害されるときにも耐え忍び、ののしられるときには、慰めのことばをかけます。今でも、私たちはこの世のちり、あらゆるもののかすです」(Ⅰコリント4・11~13)。

 

P43

著名な預言者で、5万人のクリスチャンに対して個人的な預言をし、「預言者の父」と呼ばれるビル・ハモン氏は、預言者の務めについて、次のように述べている。

「神によって任命された預言者たちは、個人、教会、あるいは国々に対して、指示、矯正、導き、そして新しい啓示を与える権利を持っています」

また、預言者とクリスチャンの関係について、こう語っている。

「神の預言者を拒絶する者は、神を拒絶しています。また、預言者を認めず、預言者に語ることを許さないなら、神に対して『何も語るな』と言っているのと同じです」

 

P44~45

こうして、ジョイナー氏は大胆にも、自分の著書はペテロ、パウロ、エゼキエル、ヨハネと同じレベルの「恍惚体験」に基づいて書いたと主張している。したがって、当然のことながら、そこに聖書と同等の権威があるという話になるのだ。

 

P45

NARの中心的なビジョンは、「七つの山」(宗教界、家庭、教育界、政界、マスメディア、芸術界・エンターテインメントの世界、ビジネス界)の制覇だ。この七つの分野にクリスチャンの影響力が増せば増すほど、人間社会の真の改革が可能になるという話だが、「七つの山の制覇」に関する聖書的言及は皆無だ。これは元々、ランス・ウォルヌーという預言者が受けた啓示だそうだ。

 

P48

元スタッフのミシェル・マックカンバー氏は、その著書The View Beneath(下から見た光景)の中で、自分がモーニング・スター・ミニストリーズに行って間もなく、聖書を読まなくなったと証言している。預言者からの啓示があるから、聖書を読むことの必要性を感じられなくなった、という。

 

P49

こうして、NARのムーブメントを批判し、「それは聖書に反することではないか」と指摘する人間は、「どのように聖霊によって導かれるかを学んでおらず」、「肉の人」とレッテルを貼られる。

書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋②

以下の書籍の引用から、NAR(新使徒的改革)とその賛同者は、神の御言葉である聖書・キリストの福音よりも、人間の権威や霊感(不思議体験)に重きを置いていることが分かります。

 

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P25

NARは教団ではなく、組織でもない。統一された教理体系もない。あくまでも、ワグナー氏の考えに賛同し、自分は使徒だと名乗り、その使徒職が認められた人々を先頭にできたネットワークだ。主だった使徒として、ワグナー氏(2016年死去)の他に、ベテル教会のビル・ジョンソン氏、ハーベスト・インターナショナル・ミニストリーのチェ・アン氏、モーニング・スター・ミニストリーズのリック・ジョイナー氏、キャッチ・ザ・ファイヤー・トロントのジョン・アーノット氏がいる。

 

P26

ワグナー氏の考えによれば、使徒の覆い(支配下)に入った教会や個人だけが神の力を受け、この終わりの時代にあって神に用いられる。使徒を認めない教会は、「貧弱なキリスト教」と見下される。

 

P26

NARの使徒たちは、(中略)世界中の教会やクリスチャンに対して影響を及ぼすことを狙っているのだ。具体的に言うと、整えられた軍隊のようにクリスチャンを世に派遣し、様々な奇跡を起こすことによって世の人々に神の偉大な力を見せつけ、人間社会を変革し、イエス・キリストが再び戻って来られるように舞台を用意するということだ。

 

P27~28

こうして、町は市民の社会的運動や政治家に対する働きかけによってではなく、「霊的戦い」によって変革を遂げるという。

実際に、社会学に精通して、社会改善をもたらす具体的なプランや政策を持っている人などいない。犯罪率を下げるためにどうすれば良いか、貧困問題にどう対処すれば良いか、誰も考えていない。いざ、クリスチャンが政治的影響力を持つようになった場合、神が使徒たちに良い知恵を与えてくださるはずだと、彼らは堅く信じているのだ。

 

P29

NARのビジョンに共鳴する若者が多い。その一つの理由として、「使徒」や「預言者」の力強いメッセージによって、安心感が得られるからだ。

(中略)

彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのだ。自信が持てないために、権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には非常に弱い。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する使徒預言者)がいれば、その言葉に飛び付くのだ。

書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋①

ウィリアム・ウッド師が書かれた「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント NARに関する警鐘を鳴らす」を是非読んでいただきたいので、一部抜粋します。

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P12

 礼拝の最中に、突然、天井から金粉らしき物が降って来た。2011年11月13日に、アメリカのカリフォルニア州レディング市にあるベテル教会において、実際に起こった出来事である。驚いた礼拝者たちは、「神の栄光の現われだ」という説明を聞いて、興奮しながら歓喜の声を上げた。ところが、礼拝者の中には不信に思った人もいて、「金粉」を集めて顕微鏡で調べると、金粉ではなく、ホビー・ショップで購入できるマーサ・スチュワート社のgold glitter(金のラメ・パウダー)であったことが判明したという。

 

P13~14

 ジョイナー氏はモーニング・スター・ミニストリーズ内で絶対的な権威を持っており、その語る言葉は聖書と同等のものとして受け止められる。元教会員の証言によると、礼拝のメッセージは、聖書からのものではなく、ジョイナー氏の受けた「啓示」が中心だそうだ。だから、教会に聖書を持って来る人はいない。皆、ジョイナー氏をモーセのような存在と見なし、彼の指示や助言に頼るようになる。ある時、新来会者が現れて、礼拝前に聖書を開いて読んでいると、二人の体格の良い警備員によって強制的に退場させられた、とのこと。

 

P15~16

 ベテル教会内にBethel School of Supernatural Ministry(ベテル超自然的ミニストリー学校)がある。世界の64カ国から集まった2千人余りの生徒たちは、ここで奇跡を行う技術を身につけている。(中略)キリストと同じ奇跡を行うことができると教育されている若者は、学校の壁に体当たりする実験を何度も繰り返している。復活された後のキリストは、カギのかかった部屋に突然現れたり消えたりしたと聖書に書かれているので、自分たちも壁を突き抜けることができるはずだと考え、その練習をしているという。

 

P17

 何とも異様な光景である。若者たちは、偉大な功績を残して天に召されたクリスチャンの墓石にしがみついて、祈りを捧げている。地面に顔をすりつけて、口で何かを吸い上げようとしているように見える人もいる。彼らは、信仰の先輩の上にあった「聖霊の油注ぎ」を自分のものにしようとしているのだ。

 

(参考資料:ウッド師の書籍とは直接関係ありませんが、以下のYouTube動画で、この「異様な光景」を見ることができます。字幕設定で、日本語を選択してください。)

 

 

P18~19

 アメリカの南カリフォルニアにあるメガ・チャーチを牧会する「使徒」が礼拝のメッセージの中で、次のような証しをしていた。

「先日、ある人が私のところに来て、高額の献金を渡しました。最初は、こんな大金をもらう訳にはいかないと思い、断ろうとしましたが、彼はこう言うのです。『あなたは私の使徒です。これをどうしてもあなたに捧げたいのです。』そこで、私は使徒の働き4章34~35節にある聖句を思い出しました。『彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである』。私はこの聖句の通りに、彼の捧げ物を受け取ることにしたのです」

 しかし、会衆の中に、この「証し」に違和感を覚える男性もいた。「あなたがたも、初代教会の忠実なクリスチャンたちのように、使徒である私に対して、同じようにしなさい」と言われているように感じ、思わず立ち上がって言った。

「その話って、ちょっとおかしいんじゃないですか」

 すると、「使徒」が厳しい口調で、「あなたは秩序を乱す者だ」と言った。次の瞬間、二人の警備員が男性の腕をつかみ、強制的に教会の外に連れ出したという。

カトリック教会が存続する理由は、神様がカトリックを「正しい」と認めたからではない

ローマ・カトリック教会が今も存在するのは、神様がカトリック教会を正しいと認めているから、と勘違いしている人たちがいるようです。

 

その理論で行くと、「ものみの塔」「モルモン教」「統一協会」が消えて無くならないのは、神様がそれらを正しいと認めているから、ということになります。

 

カトリック教会に限らず、「長く続いている」ことと「神の御前に正しい」こととは、何の関係性もありません。

また、「組織の大きさ(所属者・集会参加者の人数)」も同様です。集会の規模は、その集まりが「神の御前に正しい」と判断する根拠には、全くなりません。

 

正しいかどうかの判断基準は、「世間一般の支持率」「この世での成功」・・・などではなく「神の御言葉である聖書の教えに適合しているかどうか」です。

 

では、聖書の教えに全く逆らっているカトリック教会の存続理由は何でしょうか?

 

①何があろうとついて行くと心に決めた、バチカンの熱狂的信者がいる

自民党オウム真理教が悪行三昧やっても支持し続ける人がいるように、カトリック教会が悪行三昧やっても「変わらず支持し続ける人」が一定数います。

今でも、膨大な数の児童への性的虐待(&組織的隠蔽)が世界中で起こっていますが、被害を直接受けていない人たちにとっては、「さほど気にすることではない」のでしょう。


②地域との癒着
町ごと、州ごと、国ごとカトリック化しているので、今更その文化から離れられないようです。


③引き止め工作・改革パフォーマンスの成功
神様に対しては罪を悔い改めていませんが、世間に対して罪を認め、不都合な教義は表面上、引っ込めました。


④新しい信者の獲得
カトリック教会は昔から異教を巧妙に取り込んできましたが、さらにヒューマニズムへと拡大し、世の中の人のニーズに合わせるようにしたため、人々が入信しやすくなりました。


⑤幼児洗礼による信者獲得
カトリック家庭の赤ん坊に洗礼を授けることで、信じていなくてもカトリック信者にすることができます。

 

・・・間違った判断基準により、滅びを招かないようにしましょう。