カトリックでは死者に供え物をしたり、仏壇に手を合わせることは良いこと、とされている

以下、「カトリック教会の諸宗教対話の手引き(カトリック中央協議会)」P60~61より引用。

 

Q24【仏壇のお供え】仏壇に果物・お茶・お酒など故人が好んでいたものを供えてもよいでしょうか。
A 故人に対する尊敬と愛情の表現として、これらを供えてもよいでしょう。故人との交わりを深めるために毎日供えることも差し支えありません。カトリックの教えでは、祈り、愛のわざが死者のためにささげられます。

 

Q25【仏壇の前で】家族の中でわたしだけがカトリック信者ですが、仏壇の前に手を合わせ、鈴を鳴らし、ご飯を供え、祈りなどをしてもよいでしょうか。
A たとえ先祖のかたが洗礼を受けていなくても、善意のうちに世を去ったすべての先祖のために祈り、その保護を求めることは、その家族の一員として尊い務めです。仏壇に手を合わせるとき、たとえば「主よ、○○○○さんに永遠のやすらぎを与えてください」と心の中で祈ります。そして、鈴を鳴らし、ご飯を供えるのは、先祖に対する愛情と尊敬の表現として行われるのですから、その気持ちで、これらのことを行うようにしましょう。

 

・・・もちろん、聖書的には罪です。

 

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クリスチャンが冥福を祈ったり、焼香をしても良いのか?

カトリック教会では、神の御言葉・聖書に反し、ヒューマニズムに基いて以下のような「嘘(罪)」を教えています。

カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A」67ページ 
Q30【ほかの宗教の葬儀などへの参列】
カトリック信者は、ほかの宗教の葬儀・命日・法事などに参列してもよいでしょうか。

A カトリック教会で葬式がある場合、ほかの宗教の人々も心をこめて参列することをわたしたちは知っております。同様に、カトリック信者もほかの宗教の葬式・命日・法事にあずかり、単に礼儀作法としてだけではなく、故人の冥福を祈ることは、キリスト教的な愛のわざです。
焼香・献花などは、特定の宗教の儀式というよりは、どの宗教にも共通する儀式ですから差し支えありません。カトリック信者は、そのとき、たとえば「主よ、○○○○さんに永遠のやすらぎを与えてください」と心の中で祈りましょう。



「冥福を祈る」の意味。https://www.heart-denpo.com/manual-qa/manual/heavenly-bliss.php
「死者が冥土や冥界でさまようことなく、無事に転生できるように」との願いを込めて使われます。

「焼香」の意味。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E9%A6%99
焼香(しょうこう)とは、仏教において、香を焚くこと。特に、仏や死者に対して香を焚いて拝むこと。



聖書では、死者に話しかけたり、供え物をしたり、拝む異教行事は禁じられています。

申命記18:11
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

申命記26:14
私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。

詩篇106:28~29
彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。こうして、その行いによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。

また死者のために(救いを)祈っても意味がありません。


Ⅱサムエル12:22~23

ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

 

以下、神の戒めではなく、人間の言い伝えを守っているカトリック教会・信者に対する警告。


マルコ7:6~9
エスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。

福音を聞く機会が与えらえずに死んだ人々、胎児・赤ん坊・幼児など・・・の救いについて

A.福音を聞く機会が与えられなくても、神様は全被造物によって、ご自身を啓示しておられるので、「にも拘らず、神様を求めなかった」ことが罪とされ、地獄で罰を受けます。

ローマ1:20
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

ローマ 1:28
また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

使徒17:26~27
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

 


B.胎児や赤ん坊、幼児など「罪や救いを自分で理解する能力・機会が与えられていない人」に関しては、聖書に明確な回答はありません。

ただ聖書的には、
①全ての人は(胎児・赤ん坊・幼児も)罪を持っている。

詩篇51:5
ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

ローマ5:18
こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。

 

②神様は公正なお方で、全ての人に自由意志(神様を信じるか・否かの選択権)を与えている。

詩篇9:8
主は義によって世界をさばき、公正をもって国民にさばきを行われる。

ヨシュア24:15
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」

 

・・・以上のことを考慮すると、胎児や赤ん坊、幼児など「罪や救いを自分で理解する能力・機会が与えられていない人」がそのまま死んだ場合、死ぬ直前に、通常とは違う何らかの別の形で「選択する機会」が与えられる(つまり、誰も「無条件・問答無用で(本人の意志が無視され)」、天国・地獄に送られることはない)、と推測できます。

 


C.死後のセカンドチャンスはありえません。
それは、以下の聖句からも明らかです。

ルカ16:23~26
その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』
アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』

・・・つまり、ハデスから「アブラハムのふところ(後のパラダイス)」へ行くことは不可能。


ルカ 16:31
アブラハムは彼(=ハデスの火の中で苦しむ不信者の金持ち)に言った。『もしモーセ預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

・・・つまり、生きているうちに神の御言葉に耳を傾けることが、救いの条件である。


Ⅱペテロ3:9
主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束(=キリストの再臨と終末の裁き)のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

・・・つまり、その約束の後(この世の生涯が終わった、死後の世界)では救われるチャンスはない。


ヨハネ3:18~21
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。そのさばきというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりもやみを愛した。その行いが悪かったからである。悪いことをする者は光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。しかし、真理を行う者は、光のほうに来る。その行いが神にあってなされたことが明らかにされるためである。

Ⅱテサロニケ2:10~12
また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

・・・つまり、神の裁きは、すでに現世で行われている。

なぜ、日本ではクリスチャンが増えないのか?

①倫理道徳観が低いので、自分が救いの必要な「罪びと」だと認識できない。

 

②たとえ罪が分かっていても、悔い改めることを極度に嫌う(高慢な)民族性。

 

③精神的に自立しておらず、世間体を気にし、人を恐れているので、周囲のみんなが「キリストを信じない」ならば、自分も「信じない」という選択をする。

 

④刹那主義で「今さえ良ければいい」と考え、死後の行き先について真剣に考えない。

 

⑤拝金主義(お金が大好きで、何でもお金で解決すると考えている)。

 

⑥快楽主義(楽しければそれでいいと考え、人生の意味や目的などは考えない)。

 

⑦神観が低く、「絶対者」としての神が分からず、何でもかんでも「カミ」にして拝む。

 

⑧信仰(対象)に対する考え方が卑しく、「自分が得するために利用するツール」程度に考えている。

 

⑨偶像礼拝、死人崇拝、占い、まじない、霊媒、スピリチュアル、縁起担ぎ・・などオカルト(悪霊との交流)が好き。

 

⑩科学で証明できないものは存在しない、と勘違いしている。

 

⑪非科学的な学説に過ぎない進化論を、本気で信じきっている。

 

⑫いい加減なクリスチャンが多く、真面目に福音宣教をしていない(伝道の意味を理解していない)。

 

・・・信じる・信じないは福音を聞いた当人の責任なので、とりあえずクリスチャンは「罪の指摘、悔い改め、キリストの十字架による贖い・復活」を、早く多くの人に伝えましょう。そうでないと、自分自身も怠け者のしもべとして、暗やみに追い出されます。


マタイ25:30

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

 

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胎児の保護に関する、ファイヤーバイブルの解説

「ファイヤーバイブル」とは、聖書本文は「新改訳聖書 第3版」ですが、聖霊派の神学に基づいた解説がついた、2016年に発売された注解付聖書です。

 

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出エジプト記21:22~23の解説がとても良かったので、お分かちしたいと思います。

 

新改訳聖書 第3版では、以下のように書かれています。

「人が争っていて、みごもった女に突き当たり、流産させるが、殺傷事故がない場合、彼はその女の夫が負わせるだけの罰金を必ず払わなければならない。その支払いは裁定による。しかし、殺傷事故があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。」

 

この聖書箇所に対する、ファイヤーバイブルの解説を以下に引用して載せます。

21:22-23 流産させる いのちを守る神の律法には胎児の保護も含まれている。

(1)21:22には暴力を受けたために早産(完全に生育して生れる状態になっていない子どもを生むこと)をした女性のことが書いてある。危害を加えた者は重い処罰を受けなければならなかった。

(2)もし母親か子どもが重傷だったら、そのとき「報復法」が適用される。加害者(傷を負わせた者)は通常の事件と同じ方法で弁償するか、同じ苦しみを受けなければならなかった。もし母親か子どもが死んだときには加害者は殺人者になった。それは死刑を意味した(21:23)。そのような場合、胎児は一人の人間と見なされ胎児の死は殺人と見なされたのである。

(3)偶然にだれかを死なせたことに対して加害者に死が求められるのは律法の中で唯一、この場合だけである(⇒申19:4-10)。原則は明らかである。神は自分を守ることができない人(胎児)を守り弁護しようとされるのである。」

 

・・・聖書本文には「流産」と書かれていますが、ファイヤーバイブルの解説では「早産」とされています。

 

「口語訳」「新共同訳」「リビングバイブル」みな「流産」と訳していますが、「新改訳2017」では「早産」と改められていました。

 

新改訳2017
「人が人と争っていて、身ごもった女に突き当たり、早産させた場合、重大な傷害がなければ、彼はその女の夫が要求するとおりの罰金を必ず科せられなければならない。彼は法廷が定めるところに基づいて支払う。しかし、重大な傷害があれば、いのちにはいのちを、」

一度信じても、救いを失うことはある

聖書を普通に読めば「一度信じても、救いを失うことはある」と書かれています。

 

信仰というのは、そもそも「一度信じた」とか「過去に信じた(受け入れた)」というものではなく、「継続されるべき」ものですから、自ら途中で信仰をやめたら、救いも当然失われます。

 

他にもいくつもありますが、以下の聖句がもっとも明確に書かれている箇所です。

ヘブル6:4~6
 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

ヘブル10:26~39
 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

ところが、「信仰義認」という教理(神学)ばかりに固執する人たちは、「一度信じた者を神様が捨てるはずはないし、救いが取り消されることはない」「もし、信じたはずの人が天国に入れなかったら、それは最初から(実は)信じ救われていなかったのだ」と解釈します。

 

しかしこの解釈には、「(神様の方から人間を捨てることはないが)人間の方から神様を捨てることがある」という側面を無視しています。

 

そしてこの解釈で行くと「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」ということになり、「実によって、本物と偽物の信者を見分けなさい」という聖書の教えが無意味になってしまいます。

 

教会の中で「牧師先生」とか「〇〇姉妹」「△△兄弟」と親しく交わっている人たちも、「実は救われていない未信者」かもしれない、ということになります。

 

確かに「初めから救われていない(実は)未信者」がクリスチャン・兄弟姉妹と呼ばれている場合もあるでしょう。

しかし、すべての信者が「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」(信者か未信者か見分けのつかない)“謎信者?!”ではないはずです。

初めは熱心に信じていたのに、途中でそれをやめる信者が居るのです。

 

エス様も黙示録2:4~5で、エペソ教会の信者にこう言っています。

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 

また、人間の罪の性質(深さ)の面から考えた時、「一旦救われたら救いを失うことがない」と思っていると、信仰的に停滞・後退する可能性が高く、不信仰(不従順)な信者を生み出す結果となります(現実そうなっているように見えます)。

 

ちなみに、上記のへブル書の聖句を「単なる警告にすぎない」と捉えているようですが、旧約聖書の「祝福と呪い」の警告が、実際にバビロン捕囚等で実現していることを考えると、このへブル書の聖句を「単なる警告」と取るのは無理があります。

 

この神学が支持される他の理由として、牧師は「信者を安心させたい」「信者が好むような(易しい)ことを言いたい」傾向があるから、とも言えます。


もっと詳しい解説は、以下のリンク先、モリエル・ジャパンの「救われたら滅びないのか」をクリックすると.pdfで読むことができます。https://morieljapan.org/article/

イエス・キリストの死・復活・昇天に関する預言(聖句)

旧約聖書での「復活」の預言
詩篇2:7

「わたし(=イエス)は主の定めについて語ろう。主(=父なる神)はわたしに言われた。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。


使徒13:33(新約聖書での引用)

神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。


ヘブル1:4~5(新約聖書での引用)

御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

詩篇16:10

まことに、あなた(=父なる神)は、私(=イエス)のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。


使徒2:27(新約聖書でのペテロによる引用)

あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。


使徒13:35(新約聖書でのパウロによる引用)

ですから、ほかの所でこう言っておられます。『あなたは、あなたの聖者を朽ち果てるままにはしておかれない。』

 

旧約聖書での「あがない(十字架で死ぬ意味)」の預言
イザヤ53:4~12

まことに、彼(=イエス)は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。
 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。


マタイ8:16~17(新約聖書での引用)

夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」
 

ルカ22:37(新約聖書でのイエスによる引用)

あなたがたに言いますが、『彼は罪人たちの中に数えられた』と書いてあるこのことが、わたしに必ず実現するのです。わたしにかかわることは実現します。」


使徒8:32~35(新約聖書でのエチオピアの宦官による引用)

彼が読んでいた聖書の個所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。


申命記21:23

その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

ガラテヤ3:13(新約聖書での引用)
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。

 

旧約聖書での「昇天」「支配」の預言 
詩篇68:18

あなたは、いと高き所に上り、捕らわれた者をとりこにし、人々から、みつぎを受けられました。頑迷な者どもからさえも。神であられる主が、そこに住まわれるために。

エペソ4:8~10(新約聖書での引用)

そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──

詩篇8:5~6

あなたは、人を、神(*別訳「御使い」)よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。


Ⅰコリント 15:27a(新約聖書での引用)

「彼は万物をその足の下に従わせた」からです。


ヘブル2:7~9(新約聖書での引用)

あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

 
詩篇2:8

わたし(=父なる神)に求めよ。わたしは国々をあなた(=イエス)へのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。』」


黙示録2:27(新約聖書での引用)

彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。


黙示録12:5(新約聖書での引用)

女は男の子を産んだ。この子は、鉄の杖をもって、すべての国々の民を牧するはずである。その子は神のみもと、その御座に引き上げられた。


黙示録19:15(新約聖書での引用)
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

 

✩イエスご自身による「死」と「復活」の預言
ヨハネ2:19~22

エスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえられたとき、弟子たちは、イエスがこのように言われたことを思い起こして、聖書とイエスが言われたことばとを信じた。

ヨハネ8:28

エスは言われた。「あなたがたが人の子を上げてしまうと、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。


ヨハネ10:11~18

わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。
 わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」


ヨハネ11:25

エスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。


ヨハネ12:32~33

わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。


ヨハネ14:28~29

『わたしは去って行き、また、あなたがたのところに来る』とわたしが言ったのを、あなたがたは聞きました。あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。そして今わたしは、そのことの起こる前にあなたがたに話しました。それが起こったときに、あなたがたが信じるためです。


ヨハネ16:19~22

エスは、彼らが質問したがっていることを知って、彼らに言われた。「『しばらくするとあなたがたは、わたしを見なくなる。しかし、またしばらくするとわたしを見る』とわたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。
 あなたがたにも、今は悲しみがあるが、わたしはもう一度あなたがたに会います。そうすれば、あなたがたの心は喜びに満たされます。そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。

 

マタイ12:39~40
 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。


ルカ11:29~30(並行記事)

さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。

 

マタイ16:21

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。


マルコ8:31(並行記事)

それから、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならないと、弟子たちに教え始められた。


ルカ9:22(並行記事)

そして言われた。「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです。」

 

マタイ17:22~23

彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは彼らに言われた。「人の子は、いまに人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると、彼らは非常に悲しんだ。


マルコ9:30~31(並行記事)
さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、三日の後に、人の子はよみがえる」と話しておられたからである。


ルカ9:44(並行記事)

「このことばを、しっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。」


マタイ20:18~19

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」


マルコ10:33~34(並行記事)

「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の後に、よみがえります。」


ルカ18:31~33(並行記事)

さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」

 

✩イエスご自身による「あがない(十字架で死ぬ意味)」の預言
マタイ20:28

人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」


マルコ10:45(並行記事)

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」


ヨハネ3:13~15

だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

 

✩イエスご自身による「あがない」「復活」成就後の言葉
ルカ24:25~27

するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。

ルカ24:44~48

さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。