アメイジング・ジャーニー「神の小屋」に含まれる13の異端(ムービーガイド誌の翻訳)

アメイジング・ジャーニー「神の小屋」異端性が、複数のクリスチャンから指摘されています。

私自身は原作本も映画も直接見てはいませんが、このような意見がある作品をキリスト教会が無批判で(または称賛して)受け入れている現状があるようで、それを危惧しています。

 

以下は、ムービーガイド誌の記事(https://www.movieguide.org/news-articles/thirteen-heresies-in-the-shack.html)から翻訳したものです。

(参照聖句の実際のみことばは、新改訳聖書第3版より個人的に補足しました)。

 

 「神の小屋」における13の異端

マイケル・ユーセフによって書かれた「神の小屋における13の異端」は、その小説や映画に13個の懸念事項があること、また聖書がそれらについて何と語っているかについて、呼びかけています:

 

異端の教え①父なる神はイエスと共に十字架に掛かられた」

 神の目は純粋であり、罪を見ることができないので、聖書は、神は私たちの罪を背負って十字架にかかられた最愛の御子を見ないであろうと、言っています。

ハバクク1:13「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」

マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。」)

 

異端の教え②神は彼の愛によって制限されるので、正義を実践することはできない」   

 聖書は、神の愛と正義が同じコインの両面であると宣言しています。同様に神の人格と性格の一部です

(イザヤ61:8「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」

ホセア2:19「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。」)

 

異端の教え③神は十字架上で、彼らが悔い改めるか否かにかかわらず、全人類を赦した。 何人かは神との関係を選択するが、そうでなくても神は全ての人を赦す。」  

 イエスは、彼に来る者だけが救われると説明しました。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え④「階層構造(上下関係)は、教会や政府にかかわらず、邪悪なものである」

 私たちの神は命令する神です。

(ヨブ 25:2「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」)

 

異端の教え⑤「神は人間の罪を決して裁かない」

 神の言葉は、御子イエス・キリストを信じることによって神の裁きから逃れるように、人々に繰り返し言います。

(ローマ2:16「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」

Ⅱテモテ4:1-3「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、」)

 

異端の教え⑥「神格には階層構造がなく、まさに統一された輪である」

 聖書は、イエスが御父の意志に服従したと言います。これは、ある人物が他の人物よりも優れているか、またはより優れていることを意味しません。まさに独特です。イエスは「わたしはわたしを送ってくださった神のみこころを行うために来た。 わたしは父に従うためにここにいる」と言われました。また「わたしはあなたに聖霊を送ります」とも。

ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

ヨハネ6:44「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」)

 

関連:Movieguide®の管理者エディタからこの記事を読んで、神の小屋の肯定的および否定的な性質についても読んでください。

 

異端の教え⑦「神は人間の願望と選択を受け入れる」

 「私たちを受け入れる神」とは程遠く、イエスは「永遠の命につながる道は狭い」と言われました。私たちは神の栄光と、神が私たちのために成し遂げてくださったことのゆえに、すべてのことにおいて神に服従するために存在します。

(マタイ7:13-15「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」)

 

異端の教え⑧「愛ゆえに、公義は決してなされない」

 聖書は、神の愛が拒絶され、救済と赦しの申し出が拒否されるとき、公義がなされなければならないことを教えます。そうでなければ、神はいたずらイエス・キリストを十字架で死なせるために送ったことになります。

(マタイ12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」

ローマ3:25-26「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」)

 

異端の教え⑨「永遠の裁きや地獄の苦しみのようなものはない」

 イエスご自身の地獄の描写は鮮明です。それは否定できません。

(ルカ12:5「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

ルカ16:23「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」)

  

異端の教え⑩「イエスは全ての人とともに、神へ通じる異なった旅を歩いているので、神のもとへ行くためには、どんな道であっても問題ではない」

 イエスは言われました。「わたしが道、真実、命です。誰もわたしによらなければ、父のところへは来ないであろう」。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え⑪「エスは常に私たちとともに変容している」

 天の輝きの中に住まわれるイエスは、神の右に座して、宇宙を統治し支配しておられます。 聖書には「彼はきのうも今日も永久に存在しているので、変わることがない」と書かれています。

(ヘブル11:12「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」

ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

ヤコブ1:17「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」)

 

異端の教え⑫「誰でも天国へ行けるので、信仰も神との和解も必要ない」

 イエスは「わたしを信じる者だけが永遠の命を得るだろう」と言われました。

ヨハネ3:15「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ヨハネ5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

ヨハネ6:40「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」)

 

異端の教え⑬「神を紙に縮小化しているので、聖書は真実ではない」

 聖書は神の息吹です。 確かに、1800年間に渡って多くの人が紙にペンで書きました。(それは例えて言ってみれば、)それぞれ異なる職業と異なる背景でしたが、聖霊が彼らの作業に神の言葉を注入したのです。これらの人々は創世記から黙示録へと同じメッセージを書いていました。もし聖書の中でキリストの箇所についてもっと知りたいのであれば、「私たちはキリストを説教する」(マイケル・ユーセフ著)を読んでください。

(Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」)

エキュメニズムは、現代のバベルの塔(大バビロン)

聖書が語り、神様が命じる一致は、聖霊」による一致です。
エペソ 4:3に「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と書いてあるとおりです。

 

一方、世の終わりになって盛んになっている、カトリックエキュメニカル派が語る一致は、ヒューマニズム(人間、この世が中心・基準)」による一致です。

彼らは「節操がない不誠実なこと」を「寛容」と詐称し、「馴れ合い」を「愛」と自称しています。

彼らは聖書の「絶対者」「審判者」「完全なる正義」である神様、「唯一の救い主」であるキリストを否定します。自分たちの願望に合わせて、聖書の中から都合の良い箇所だけ信じ、都合の悪い箇所を否定します。

 

彼らが信じているのは、「罪を裁かない(不正な)神」、「悔い改めなくても悪を許容してくれる神」、「世界中にたくさんいる救い主のひとりとしてのイエス・キリスト」なのです。

 

聖書の教えを踏みにじっておきながら、なぜか「キリスト教」という名称だけは欲しいようですが、「キリスト教」という名称が、ブランド・ファッションとしてそれほど魅力があるのでしょうか?・・・答えはガラテヤ1:6~7にあります。

 

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

 

続く8~9節には、こう警告されています。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

 

神の御言葉ではなく、自分たちが考え出した(聖書に反する)伝統に従っている者に対して、主イエス様ご自身も厳しく叱っています。


マタイ15:1~9
 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

  偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 

<「の言葉・教え」ではなく、「この世の言葉・人間の教え」によるヒューマニズム一致運動が、バベルの塔の罪>


創世記11:1~9

  さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
  そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

神様が望んでおられるのは、この世の言葉・人間の教え(エキュメニズム)による一致ではなく、神の御言葉であるイエス・キリスト(聖書)及び聖霊に基づく一致です。

牧師の本音はどちらでしょうか? たいていの牧師は、神様のためではなく、自分のために働いている

<牧師の本音はどちらでしょうか?>
A.人々が、自分(その牧師)の牧会する教会に来なくてもいいから、イエス様を信じて救われて欲しい。
B.人々が、救われなくてもいいから、自分(その牧師)の牧会する教会に来て欲しい。

 

牧師とその地域教会がやっていることから判断してみましょう。


・集会案内などで「教会に来てください」と記載しても、「主イエス・キリストを信じて救われてください」とは書かない。
・教会ホームページを見ても、教会の案内ばかりで、「すべての人は主イエス・キリストを信じて救われる必要がある」ことを載せていない。
・肝心の「キリストの十字架の救い」を伝えないで、コンサート、バザー、〇〇教室、クリスマス会、カウンセリングなどの「呼び込み(勧誘)」を頑張っている(あるいは、それさえやらない)。
・自分の教会には来そうにない地域の人には興味がない。
・地方(田舎)では人口が少なく、大きい教会を作ることが難しいので、福音を聞いたことがない人がいても、田舎ではほとんど伝道しない。
・人(お客さん)が教会に来なくなると困るので、お客さんの嫌がる「地獄」や「悔い改め」は語らない。
・教会の看板や掲示板に「教団教派教会名、牧師名」は書いていても、「みことば」が書いていない。
・体調が悪くても、教会(日曜礼拝)に来させる。
・本当に信じていない人にバプテスマを授ける。
・大きい教会堂を建てたがっている。
・やたらと教勢(出席人数)を気にする。
・キリスト(聖書)ではなく、牧師に依存させようとしている。
・聖書に書いてあるとおり「外に出て行って」の伝道ではなく、教会内に閉じこもり、説教だけしている。
・救霊の気持ち(滅び行く人々に対しての憐れみの心)がほぼ無い。
・「教会に人を呼ぶことが伝道だ」などといい加減なことを言っている。

クリスチャンがすべき生き方は「自己犠牲」・・・イエス様が模範を示してくれたように

多くの教会、クリスチャンの間で、聖書の学びが「“自分の”知識的欲求を満たす」目的になってしまっているような気がします。

 

現実社会で役に立たない(他者のために実践しない)、「“自分の”頭の中だけの信仰」。

 

クリスチャンの生き方は、イエス様がされたような「自己犠牲(他者中心)」であるはずなのに、信じた後も「自己中心」が改まっていな信者が多いようです。

 

簡単に言うと、“自分が”得するために神様を信じている。・・・それゆえ、せっかく聖書を読み学んでも、信仰の実を結ぶことがない。

 

心の動機を常にチェックする必要があるでしょう。

キリスト教会で「クリスマス」をすべきか?

キリスト教会で「クリスマス」をすべきかどうか?賛否両論ありますので、以下に個人的な見解を述べさせていただきます。

 

キリスト教会での「クリスマス」の問題点

①12月25日をイエス・キリストの「誕生日」と言うこと・・・この間違いは明らかなので、詐称していることになります。

(どうすれば良いか)→言うならば「誕生記念日」にすべき。たとえ異教がルーツであっても、同じ日にキリスト教のお祭りをしてはいけない、とは言えないでしょう。

 

②過剰・異常な取り組み(お金・時間・労力をかけすぎ)・・・お金:クリスマス特別献金の要求。時間:数ヶ月~1年も前から準備開始。労力:教会員総動員で奉仕半強要。一回のみならず「子供クリスマス会」「青年クリスマス会」「婦人クリスマス会」「クリスマス礼拝」「クリスマスコンサート」等、教会によっては何回もやる。疲れ果てている教会員も多い。

(どうすれば良いか)→キリスト降誕を祝うことは、聖書的でも非聖書的でもない。いわゆる「無聖書的(聖書で良いとも悪いとも言っていない)」なので、個人の信仰の自由で行えば良い。教会(牧師)が強要してはいけない。

 

③「伝道のため」と言うが、ほとんど伝道になっていない・・・クリスマスに限った話ではないが、「伝道もどき」をやっている。「イエス・キリストの十字架による贖罪/福音の核心」を伝えないで、クリスマス集会への勧誘、賛美歌発表会、プレゼント交換、教会内での盛り上がりに終始している。いつまでたっても「家族」「友人」が対象で、福音を伝えるべき「(十字架の救いを聞いたことのない)すべての人」は無視されている。牧師も「あぁ、人が(教会堂に)来て良かった」で終わり。

(どうすれば良いか)→最低限、きちんとした「福音宣教」をすべき。

 

その他・・・クリスマス撲滅運動をしても意味はない。せっかくの伝道のチャンスを、あえて無にする必要はないでしょう。

“牧師の都合に合わせた”教会形成&聖書解釈の間違い

プロテスタントでは、基本的に「聖書信仰(聖書はすべて原典において誤りなき不変の神の御言葉)」であり、聖書に忠実であるように心がけていますが、実際には、聖書よりもかなり「伝統」に従っています。

多くの場合「悪意」を持ってそうしている訳ではありませんが、「牧師の都合」に合わせた聖書解釈になってしまっているのです。

すべての牧師がそうという訳ではありませんが、大抵以下のような思い違いをしています。

 

「教会」

×牧師の都合解釈・・・主に、自分が牧会している「地域教会(いわゆる○○教団□□教会)」のこと。

◎聖書の本当の意味・・・キリストを心から信じているクリスチャン一人一人のこと。また地域や時間を超えた、その目に見えない「総体」を指す。
エペソ 1:23「 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
Ⅰコリント 12:12~13 「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
Ⅰコリント 12:27 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 

「礼拝」

×牧師の都合解釈・・・日曜の集会(プログラム)に出席すること。

◎聖書の本当の意味・・・自分を神様に捧げて(自己犠牲を払って)、御言葉に従って、神様と人を愛し日々生きること。
ヨハネ 4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ローマ 12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
マルコ 12:33 「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 

「(救いに至る)信仰」

×牧師の都合解釈・・・一度キリストを心に受け入れること。過去に信仰告白(決心)をしていれば、救いを失うことはない。

◎聖書の本当の意味・・・継続的に神・キリストに信頼し、愛し続けること。最後まで耐え忍ぶ者が救われる。行いが伴う。
マタイ10:22 「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
マタイ7:21~27 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
ヨハネ15:5~6 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」

Ⅰコリント 16:22 「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」
ヘブル 6:4~6「 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
ヤコブ 2:14~26 「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
 さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

黙示 14:12 「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

「伝道」

×牧師の都合解釈・・・(イベントなどを通して)自分が牧会している地域教会に人を「勧誘」すること。地域教会を「宣伝」すること。あるいは、洗礼を受けさせること(人間的努力によって「救う」こと)。教会堂の中で「説教(信者向けの聖書の解説)」をすること。善行をすること。

◎聖書の本当の意味・・・キリストの救い(福音/その中心は主イエスによる贖罪と復活、それがもたらす罪の赦しと永遠の命・神の国)について、聞いたことがない全世界の全ての人に、言葉で伝える(教える)こと。
マタイ 4:17 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」
マルコ 16:15 「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
ルカ 10:9 「そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。」

ルカ 24:46~48 「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

使徒1:22 「すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
使徒 4:33 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」
使徒 17:3 「そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った。」
使徒 17:17 「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」
使徒 20:21 「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
ローマ15:19「~私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」
Ⅰコリント 15:1~5 「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

 

「交わり」

×牧師の都合解釈・・・自分の所属教会に、ただ教会員が集まること。食事会など。ただの社交場。

◎聖書の本当の意味・・・神イエス・キリストが(話題の)中心となった信者同士の交流。
ヨハネ 1:3 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

 

「証し」

×牧師の都合解釈・・・単なる人生の体験談。一日を振り返っての感想など。何か不思議な出来事に関するお話。

◎聖書の本当の意味・・・日々の信仰生活によって、神様の素晴らしさを現わすこと。その体験談。
マタイ5:13~16 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

Ⅰコリント10:31 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」
ピリピ2:16 「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

 

「成長(実を結ぶ)」

×牧師の都合解釈・・・自分が牧会している地域教会の出席人数が増えること。教会堂が大きくなること。この世で繁栄すること。

◎聖書の本当の意味・・・クリスチャン一人ひとりが、いかなる状況においても信仰生活が送れるように「自立」すること。聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が見られるようになること。キリスト(のご性質)に似た者に変えられていくこと。
Ⅱコリント 3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ガラテヤ 5:22~23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
ピリピ 3:14 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
ヘブル 6:1 「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

 

「自己犠牲(愛の実践)」「従順」

×牧師の都合解釈・・・自分の所属している地域教会に対し、牧師の言うことをよく聞き、奉仕・献金をたくさんすること。

◎聖書の本当の意味・・・神様の御言葉に従って、自分の時間・財産等を用いて、日々人々に伝道し、弱者・困窮者を助けること。
使徒 5:29 「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。」

ルカ6:33~36「自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
ヤコブ 1:27 「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

 

「求道者」

×牧師の都合解釈・・・ただ地域教会に来る人

◎聖書の本当の意味・・・道であるキリストを求める人
詩篇86:11 「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」
イザヤ55:6 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」
ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
使徒17:27 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」

 

「神に用いられる」

×牧師の都合解釈・・・何か目立った働きをすること。特別な役割を果たすこと。この世あるいはキリスト教業界内で有名になること。

◎聖書の本当の意味・・・(この表現自体、聖書中にはほぼ無いが)小さいことでも忠実に神様に従うこと。

 

*聖書を自分で読まないクリスチャンは、「牧師の都合解釈」が正しいと思い込んでしまっています。

*悪意を持たない牧師であっても、伝統に従って「牧師流解釈」をする理由は、聖書ではなく(聖書以前に、聖書以上に)ある種の「神学」を信じている点が原因と思われます。

おそらく、聖書(神の御言葉)を繰り返し読む前に、神学(聖書を元に人間がまとめた学問)を先に叩き込まれているゆえに、聖書を解釈する際、自分が勉強した「神学」というメガネを通して見てしまい、本当の解釈が見えてこないのでしょう。

(たとえば、エホバの証人が聖書を読むとき、「ものみの塔」「目ざめよ」等の組織が書いたテキストを通して解釈するのと同じ問題。)

裁いてはいけませんか?

「裁いてはいけない(マタイ7:1)」という教えは、最も誤用(時には意識的に悪用)されている聖句です。
罪を指摘された人間が、自分の罪を自己弁護する”言い訳”として使われるケースがほとんどです。「裁いてはいけません、赦し合いましょう。」・・・カルト教会の牧師はこの言葉を利用して、自分の悪事を封じ込めています。


「裁き」及び「見分け」或いは「戒め」の”必要”についての聖句


マタイ 7:15~20

 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。


ヨハネ 7:24
うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

Ⅰコリント 5:1~13
あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

エペソ 5:3 ~17
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。


コロサイ3:16

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、


ヨハネ 4:1~6
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。

 

 

聖書で「裁いてはいけない」と言っているのは、「御言葉の中で罪として明確にされていないような」ものに関してです。たとえば「テレビを見ることは罪」だとか、「タバコを吸うと天国に行けない」など。

ちなみに、

マタイ7:1は、リビングバイブルでは「人のあら捜しはいけません」と訳されています。