裁いてはいけませんか?

「裁いてはいけない(マタイ7:1)」という教えは、最も誤用(時には意識的に悪用)されている聖句です。
罪を指摘された人間が、自分の罪を自己弁護する”言い訳”として使われるケースがほとんどです。「裁いてはいけません、赦し合いましょう。」・・・カルト教会の牧師はこの言葉を利用して、自分の悪事を封じ込めています。


「裁き」及び「見分け」或いは「戒め」の”必要”についての聖句


マタイ 7:15~20

 にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。


ヨハネ 7:24
うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。

Ⅰコリント 5:1~13
あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種の入らない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。
私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。それは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

エペソ 5:3 ~17
あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者──これが偶像礼拝者です、──こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行いのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。──光の結ぶ実は、あらゆる善意と正義と真実なのです──
そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。


コロサイ3:16

キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、


ヨハネ 4:1~6
愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。
エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。
彼らはこの世の者です。ですから、この世のことばを語り、この世もまた彼らの言うことに耳を傾けます。私たちは神から出た者です。神を知っている者は、私たちの言うことに耳を傾け、神から出ていない者は、私たちの言うことに耳を貸しません。私たちはこれで真理の霊と偽りの霊とを見分けます。

 
黙示録 2:1~7

エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。

しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行いを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

 

黙示録2:12~17

また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行わせた。それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
  だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』


黙示録2:18~29

また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。「わたしは、あなたの行いとあなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っており、また、あなたの近ごろの行いが初めの行いにまさっていることも知っている。
  しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行わせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行う者たちも、この女の行いを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行いに応じてひとりひとりに報いよう。
  しかし、テアテラにいる人たちの中で、この教えを受け入れておらず、彼らの言うサタンの深いところをまだ知っていないあなたがたに言う。わたしはあなたがたに、ほかの重荷を負わせない。ただ、あなたがたの持っているものを、わたしが行くまで、しっかりと持っていなさい。勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。また、彼に明けの明星を与えよう。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』

 

 

聖書で「裁いてはいけない」と言っているのは、「御言葉の中で罪として明確にされていないような」ものに関してです。たとえば「テレビを見ることは罪」だとか、「タバコを吸うと天国に行けない」など。

ちなみに、

マタイ7:1は、リビングバイブルでは「人のあら捜しはいけません」と訳されています。

2種類の「悔い改め」について

「悔い改め」には2種類あります。

①本質的な罪(神様を信じないで、自己中心に生きること)に対する「悔い改め」
・・・これは「人生の180度方向転換」を意味します。つまり「自己中心から神中心の人生へと、真逆方向へ完全に切り替えること」です。そしてこれは「イエス・キリストを信じること」とセットです。キリストを信じずに、この「悔い改め」だけしても意味はありません。
また、人生において一回きりです。一度悔い改めたら、元に戻って(背教・棄教して)はいけません。元に戻ってしまったら、もう悔い改めのチャンスは与えられません(聖霊を冒涜する罪にあたるので)。

②日々の過ちに対する「悔い改め」
・・・これは、”神様を信じた後に”犯してしまう日々(個々)の罪に対する「反省と謝罪」及び「真っ直ぐな信仰に立ち返ること」です。つい嘘をついてしまったり、悪いことを考えてしまったり、ちょっと神様を疑ってしまったり・・・という罪に対してです。
この罪に対する悔い改めは、罪を犯したことに気づいたらその都度(できるだけ早く)行うべきものです。クリスチャンになっても「罪の性質」は残っているので、生涯何度も行うことになります。

 

①をせずに、②を行うのは一般道徳としては良いことですが、神様からの「赦し(救い)」や「罪に打ち勝つ力」が与えられないので、本質的な解決になりません。

 

また①の悔い改めだけ行って、②の悔い改めを行わないクリスチャンは、信仰的になんの成長も聖め(聖化)もありません。いつまでも赤ちゃん信者のままで、場合によってはそのまま信仰から落ちていきます(実質、少しずつ自ら信仰を捨てているようなものなので)。

教会に行く必要はあるか?洗礼を受ける必要はあるか?

洗礼(水のバプテスマ)について
①聖書の中で「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16:16)」と書かれているので、特殊な事情(病気やふさわしい教会が近くにない等)がない限り、洗礼は受けるべきです。

②特殊な事情で洗礼を受けていない場合でも、心から悔い改めてキリストを信じていれば、天国には入れます。以下の聖書箇所が根拠です。
ルカ 23:39~43
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

③洗礼を受けていない場合の弊害は、社会的に(この世的に、公に)「クリスチャン」として認められないことです。つまり世間一般では「自称クリスチャン」という扱いになってしまいます。


 地域教会に行くか行かないか、について
①「地域教会に行きなさい、所属しなさい」という教えは聖書にありませんので、そこに加わらなくても、特に問題はありません。

②しかし、神様を礼拝しないことは罪です。また兄弟姉妹(クリスチャン仲間)との交わりは信仰生活上必要なものです。一人で信仰生活を送ることはできません。

③ここで注意すべきは、「神様を礼拝する」というのは、「地域教会の日曜礼拝というプログラムに出席すること」ではなく、日々自分自身を神様に捧げて生きる(つまり御言葉に従って生きる)ことです。
また「信徒同士の交わり」というのは、「地域教会に所属・参加すること・顔を合わせること」ではなく、信者同士が(場所を問わず、何らかの形で)神様のことをテーマとして交流することです。

「礼拝」に関する聖句は以下。
ヨハネ 4:21 -24(リビングバイブル)
「いいですか。 父なる神を礼拝する場所は、この山か、それともエルサレムか、などとこだわる必要のない時が来るのです。 大切なのは、どこで礼拝するかではありません。 どのように礼拝するかです。 霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのです。 神は霊なるお方だから、正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。 神はそのような礼拝をしてほしいのですよ。 あなたがたサマリヤ人は、神のことはほとんど何も知らないで礼拝していますが、私たちユダヤ人はよく知っています。 救いはユダヤ人を通してこの世に来るのですから。」

ローマ 12:1(新改訳)
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

「交わり」に関する聖句は以下。
ヨハネ1:3
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

ヘブル 10:24~25
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

ガラテヤ 6:10
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

コロサイ3:16
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。


「教会」とは
①国境や時代を超え、たった一つの目に見えないクリスチャン共同体・・・聖書に書いてあるとおりのキリストを信じ「新生」した一人一人(=真のクリスチャン)およびその集まり。キリストがその頭(かしら)で、信者一人ひとりがその体の各パーツとして構成されている。
②現実のこの世にある、目に見える「地域教会」・・・いわゆる「〇〇教団△△教会」。
③①の「キリストのみからだ」と②の「地域教会」の最も大きな相違は、①は完全であり②は不完全であること。②の中には間違った教えや実は信じていない(救われていない)教会員(牧師)が含まれていること。多くの場合①と②をごっちゃにしているので、いろいろな問題が起こってくる。
④聖書で教えているのは、「地域教会に行きなさい・来なさい」ではなく、「キリストのみからだである真の教会の一部となって生きなさい」ということ。
⑤要するに目に見える「地域教会」とは、聖書の言葉を実践する(=信者が信仰生活を送る)にあたって、要点をしぼり、より簡潔したひとつの形。目に見えない真の教会である「キリストのみからだ」を具現化した(いろいろな)形の内のひとつ。

「教会」についての聖句
エペソ 4:15~16
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

Ⅰコリント 12:12
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。


「結論(実際にどうするのが良いか)」
本来聖書では、洗礼を授けることができるのは「地域教会の牧師限定」ではありません。神様から召命を受け、神様に「献身」しているクリスチャンならば、洗礼を授ける権利はあると思われます。
しかし、そのようなクリスチャンが勝手にそう主張(自称)して、洗礼を授け出すと、秩序というものがなくなり、キリスト教全体の腐敗や堕落につながる可能性があるので、混乱を避けるために「地域教会の牧師(副牧師・伝道師)のみ洗礼を授ける権威がある」としているようです。
というわけで、洗礼を受けるためには、一時期は地域教会につながる必要はあるでしょう。しかし、上記したように、目に見える「地域教会」では聖書に反した教えや人が含まれている場合があるので、「(完全ではないけれど)良さそうな教会だったら通い続け、悪い教会であると気づいたら(受洗後)離れる」のが良いと思われます。

悪い教会から離れた場合、自分自身で何らかの形で礼拝(神様の御言葉を実践:聖書を読み、祈り、賛美し、伝道し、弱者を助ける等)し、どこかでクリスチャン同士の交流の時を持たなければなりません(*実際にこのように自主的に行動するのは大変なので、悪い教会と分かっていても”簡易信仰システムで”ある地域教会・牧師に依存する信者が多いです)。

聖書を理解するのに、指導者や導く組織は必要でしょうか?

<聖書を理解するのに、指導者や導く組織は必要でしょうか?>

特別な人物や組織がないと、信者は自分で聖書を知ることは出来ないのでしょうか?

 

ローマ・カトリック教会ローマ法王バチカン)、ものみの塔(統治体)、モルモン教会(ジョセフ・スミス)、統一協会文鮮明)がその権威を主張し、プロテスタン各地域教会でも、時に「牧師」によらなければ聖書は難解で理解できない、と言われることもあります。

 

しかし聖書は、全ての信者がその本質(神への「信仰」や「愛」など)について、誰からも教わらなくても分かる、と証言しています。

その理由は、キリストの贖いが完成した「新約」の時代は、信者全員に「聖霊なる神」が内住されるからです。

旧約時代は、この恵みがなく、聖霊はごく一部の信仰者(アブラハムモーセダビデ、預言者など)にしか注がれていなかったので、民を導く指導者が必要でした。しかし現代は違います。特別な指導者・組織は必要ではありません。


ヨハネ 2:20~21

 あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。


ヨハネ2:27

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。


エレミヤ 31:33~34

 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──主の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

ただし、以下の聖句にあるように、各々が自分勝手な解釈をして良いという訳ではありません。


Ⅱペテロ1:20

 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。


Ⅱペテロ3:16

 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 

聖書を理解する際に重要なのは、聖書全体が何を語っているか、ということを押さえることです。そうでないと、一部の聖句だけ拾って、聖書全体や前後の文脈を無視した突拍子もない解釈が出来てしまいます。

 

実例)マタイ 4:5~7

 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

エスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 

(悪魔が引用した聖句)詩篇 91:11~12

 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
(イエスが引用した聖句)申命記 6:16

 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

 

細かい解釈に関しては勉強する必要があるでしょう。

コロサイ3:16

 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め・・・

 

学ぶ際にも、「“互いに”教え」とあるので、特定の人物(組織)を通してだけではなく、それぞれが教え学び合うことが出来るのです。

細かい解釈においても、一般の信徒の方に、牧師や教師よりも深い理解(より聖書的な解釈)が与えられることはあります。

 

<なぜ信者は指導者を欲しがるのでしょうか?>

それは、「自分で考える」ということを放棄しているからです。「自分で考え、自分で決断し、自ら進んで実行する」というのは、それなりの労力が必要です。群衆はそれが面倒なので、自分の果たすべき責任を回避し、“要点だけを簡潔に教えてくれる”指導者に依存しようとします。

 

自分で「聖書を読む」のは大変なので、聖書の要点を解説してくれる(であろう)牧師の「説教を聞く」ことで済まそうとします。

実際のところ多くの場合、礼拝タイムの牧師の説教は、聖書を(自分の都合に合わせて)チョロっと引用するだけで、後はこの世の話をしたり、肯定思考・成功哲学を唱えたり・・・など聖書と関係ない(或はかけ離れた)話をします。

しかし、責任を放棄した群衆は、それが聖書の教えだと勘違いします。それで「神様に従うこと=指導者に従うこと」といつの間にか思い込むのです。

 

指導者や権威の存在すべてを否定する必要はありません。しかし、神様はそれほど多大な権力を、特定の組織や人物に与えていません。

初めに語ったように、今は旧約の時代ではないのです。すべての(新生した)信者は同じ兄弟姉妹(の立場)なのです。

ペテロはローマ法王ではない(カトリック教会が実権を奪った経緯)

聖書に出てくる初代教会は「ローマ・カトリック教会」ではないし、ペテロはカトリック信者でも初代ローマ法王でもありません。ローマ・カトリック教会が実権を握っていった歴史的経緯を辿ってみます。

 

<初代教会=エルサレム教会&アンテオケ教会・・・聖霊に満たされた聖書信仰者の集まり>

聖書に出てくる初代教会は“聖霊によって”エルサレムから始まりました(使徒の働き2:4)。その後異邦人にも広がり、アンテオケにおいて初めて「キリスト者」と呼ばれるようになりました(使徒11:26)。

この2箇所の教会、「エルサレム教会(イエス様の弟のヤコブやペテロら)」と「アンテオケ教会(パウロバルナバら)」が中心となって、“聖霊によって”教義をまとめたり(使徒15:28)、宣教師を派遣したり(使徒13:2)していました。

 

ペテロはユダヤ人を中心に伝道し、パウロは異邦人に広く伝道して行きましたが、やがてコリント、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ・・・、そしてローマにも、キリスト者の群れ(教会)が出来て行きました(各教会あてにパウロが手紙を書いています)。

 

ペテロ、パウロとも晩年にローマに行きましたが、時の皇帝ネロの迫害を受けて殉教しています(紀元60年代)。

その後、紀元70年にエルサレムローマ帝国に滅ぼされてしまったので、教会の中心が次第に首都であるローマに移って行きました。

 

<ローマ教会の“人間的打算”に基づく権力化と堕落>

信者が増えるにつれて、異端や分派の問題が起こってきたので、教義を整えたり、指導者の権威を強める「組織化」が少しずつ始まりました(紀元180年頃)。

そして3世紀になって、指導者に対して「教皇」という名称が使われるようになってきました。

 

やがてさらなる信者の拡大と、ローマ帝国の弱体化により、紀元313年、コンスタンティヌス皇帝が「キリスト教を公認」、紀元380年にテオドシウス皇帝が「国教化」することにしました(表面的には、キリスト教が勝利したかのように見えましたが、実は政府と癒着したために、ここで一気にキリスト教の世俗化・堕落が進んで行きます)。

 

その後その息子の代で、ローマ帝国が東西に分裂したのですが、教会も分裂し、世俗の権力争いに巻き込まれ、互いの正統性を主張するために、権力を更に強化していく必要が起こりました。

やがて、東ローマ帝国キリスト教を「東方教会(オーソドクス、ハリストス正教会)」、西ローマ帝国キリスト教を「西方教会ローマ・カトリック教会)」と呼ぶに至ります。

 

西方ローマ・カトリック教会は、自分たちだけが正統的キリスト教であり、自分たちだけが初代教会(ペテロら)の信仰を受け継いでいることを主張するために、歴史をさかのぼって、“勝手に”ペテロを「(カトリックの)初代教皇ローマ法王)」と決めました。

実際のところは、歴代ローマ教皇(その他司教・修道院長も含む)は、世俗の権力や金銭での取引によって任命されたケースもたくさんあり、「信仰(霊的権威)の継承」などとは関係ないのです。

 

その後ローマ・カトリック教会は、組織を巨大化し権力を絶大化するために、世俗や土着宗教(女神信仰:マリア崇敬など)を取り込んだり、十字軍を派遣したりして、さらなる堕落を続けました。

  

ローマ・カトリック内における、聖書信仰者たちの抵抗>

そのような堕落に対し、カトリック内でも“聖霊の導きによって(ヨハネ14:26、15:26)”「聖書の教えに立ち返ろう」とする勢力(すなわち、イエス様やペテロ、パウロ、12使徒、初代教会のような聖書信仰者)はいましたが、カトリック教会はそのような人々を迫害し異端として破門して行きました(有名なところでは、12世紀のピーター・ワルドー、14世紀のジョン・ウィクリフ、15世紀のヤン・フスなど)。

 

しかし時至って、堕落の極みに達した16世紀に、マルチン・ルターら(いわゆる宗教改革者)が決起して、ローマ・カトリック教会の腐敗を断罪し、ついに初代教会の「聖書信仰(福音主義)」を取り戻し、プロテスタントと呼ばれるようになったのです。

 

<大した権限を持っていないペテロ・・・聖書より>

聖書(66巻)において、使徒ペテロはイエス・キリストに愛された一番弟子であり、指導者の立場であったことは確かですが、カトリック教会が主張する初代ローマ法王であったとか、ローマ法王のような強権をふるったという箇所はありません。

キリスト昇天後について書かれた「使徒の働き(使徒行伝)」でも、中心的人物は途中からパウロに移っています。

また、ペテロが書いたとされる書物は「ペテロの手紙 第一」「ペテロの手紙 第二」の二つしかありません。

それに対し、使徒ヨハネは「ヨハネ福音書」「ヨハネの手紙 第一」「ヨハネの手紙 第二」「ヨハネの手紙 第三」「ヨハネの黙示録」の5書を書きました。

主イエスの弟(ヨセフとマリアの間に生まれた普通の人間)であるヤコブが「ヤコブの手紙」を書き、ユダが「ユダの手紙」を書きました。先に書きましたように、このヤコブは「エルサレム教会」の中心人物になっています。

パウロが書いたものは「ローマ人への手紙」「コリント人への手紙 第一」「コリント人への手紙 第二」「ガラテヤ人への手紙」「エペソ人への手紙」「ピリピ人への手紙」「コロサイ人への手紙」「テサロニケ人への手紙 第一」「テサロニケ人への手紙 第二」「テモテへの手紙 第一」「テモテへの手紙 第二」「テトスへの手紙」「ピレモンへの手紙」の13書にも及びます。

(もちろん、これらの書物の本当の著者は、聖霊なる神様ご自身です。ペテロ自身も以下のように証言している通りです。「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。」ペテロの手紙 第二1:21)

 

パウロは、自分が人間組織によって任命されたのではなく、キリストによって直接召命を受けたことを、ガラテヤ人の手紙において書いています。

1:11~12

 兄弟たちよ。私はあなたがたに知らせましょう。私が宣べ伝えた福音は、人間によるものではありません。私はそれを人間からは受けなかったし、また教えられもしませんでした。ただイエス・キリストの啓示によって受けたのです。

 2:8

ペテロにみわざをなして、割礼を受けた者への使徒となさった方(=キリスト)が、私にもみわざをなして、異邦人への使徒としてくださったのです。

 

さらに興味深いことに、同所において、パウロがペテロの不信仰を咎めています。

ガラテヤ2:11~14

 ところが、ケパ(=ペテロ)がアンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私(=パウロ)は面と向かって抗議しました。なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。そして、ほかのユダヤ人たちも、彼といっしょに本心を偽った行動をとり、バルナバまでもその偽りの行動に引き込まれてしまいました。しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

 

<そもそもペテロが絶大な権力を持つという教えは、どこから来たのでしょうか?>

ローマ・カトリック教会が根拠としてあげる聖書箇所は以下です。

マタイ16:15~19

エスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

 

「わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」という部分の「この岩」がペテロである、とカトリックは主張しています。

しかしこの「岩」はギリシャ語「petra(ペトラ)」で、大きな岩の塊を意味します。

一方「あなたはペテロです」の「ペテロ(ギリシャ語Petros)」は小石のことです。

つまり、キリストが「この岩」と言った時、それはペテロを指して言ったのではない、ということです。

 

「あなたはペテロ(小石)です。わたしはこの岩(大きな岩)の上にわたしの教会を建てます。」

では「この大きな岩」とは何を指しているのでしょうか?2通りの解釈があります。

①「生ける神の御子キリスト」ご自身

②「あなたは、生ける神の御子キリスト」という信仰

 

旧約聖書では、主なる神様を岩、巌とくり返し呼んでいます。

詩篇18:2

主はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。

 

パウロは証言しました。

Ⅰコリント10:4

みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。

 

ペテロ自身こう言っています。

Ⅰペテロ 2:6~8

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼(=イエス)に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった」のであって、「つまずきの石、妨げの岩」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。

 

カトリック教会内での矛盾>

実は、歴代ローマ法王自身、「この岩」がペテロを指すと理解していた人は多くありません。

フランスのあるカトリック学者が、延べ80人の歴代教皇の発言を調べた結果、「この岩」がペテロを指していると信じていた教皇は16人。キリストを指していると信じていた教皇も16人。使徒たち全員を指していると信じていた教皇8人。ペテロによる信仰告白であると信じていた教皇は44人であったことが判明しました(White, The Roman Catholic Controversy, p.120から引用/ICM出版「プロテスタントカトリックの団結ですか?」クリス・モモセ著)。

 

また、仮に「この岩」がペテロであった場合、それはまさにペテロ個人(のみ)なのです。二代目、三代目・・・と「継承」することは出来ません。

もし「継承できる」と主張するならば、それはやはり「ペテロと同じ信仰を持っている」人であって、「この岩」とはペテロ個人限定ではない、ということになります。

 

ちなみに、マタイ18:18では、先に上げた16:19の後半と同じ言葉が複数形で書かれています。この聖句における「あなたがた」とは弟子たちのことです。

「まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。」

 

<結論>

キリストの御体である教会の中心は、「聖霊なる神様」ご自身であって、人間の組織ではありません。そして「聖書は(すべて誤りなき不変の)神の御言葉」と認定したのは、カトリック教会ではなく、聖霊なる神様ご自身なのです。

ですから、キリスト者は「聖書」と「(内住される)聖霊なる神様」に聞き従うべきであり、それに反した教えをしている人間組織に従ってはいけません。

聖書の教えに全く逆らっているカトリック教会

カトリック教会の教えが「聖書」に準じていると勘違いしていないでしょうか?

カトリックの教えは、中心的な教義において、聖書に真っ向から反対するものです。

 

カトリックは聖書に従っているのではなく、聖書に反する「聖伝」というものに従っています。言い換えるならば、(聖書という)神の御言葉ではなく、(ローマ・カトリック教会という)人間組織に従っているのです。

 

カトリック教会は「聖書の一部を(カモフラージュのように)利用しているだけ」なので、統一協会モルモン教末日聖徒イエス・キリスト教会)、エホバの証人ものみの塔)、あるいは、聖書を使う新興宗教と根本的には変わりません。

 

聖書に反するカトリック教会の教え・考え

①行いによる救い

キリストの贖いを信じるだけでは不十分で、洗礼、ミサへの出席、告解(懺悔)、償い(断食、献金・・・)などの善行により、天国(永遠の命)を自ら獲得しなければならないという教え。

②階級制(信者の不平等)

ローマ法王バチカンに絶対的な権力があり、司祭を通さないと一般の信徒は神様を直接礼拝することができないという教え。

③聖体拝領

パンとワインがミサの度ごとに、実際にキリストの体と血そのものに変わる。贖いを成就され天におられるはずのキリストが、司祭によって何度も何度も地上に呼び戻され、くり返し捧げられなければならないという教え。

 

イエス・キリストを信じなくても天国へ行ける

イエス・キリストを信じていない他の宗教であっても、結果的にはキリストにつながっており、救われるという教え。「無名(匿名)のキリスト者」という神学。

⑤救いの確信は存在しない

この地上に生きている間に(現在の世において)、天国へ行ける確信を持つことはできないという教え。「聖霊の内住」「新生」の否定。

 

⑥煉獄

カトリック信者のごく一部の信仰深い者を除いて皆が、罪を償うために死後に行くところ。「有限」ということを除き、地獄の火と全く同じ苦しみを受けなければならない。「有限」に関しても一体何年続くのか、何百万年続くかも定かではない。

⑦免償

聖書を読んだり、ロザリオの祈りを唱えたり、十字架の道行の修行をしたり、聖水、メダイ、聖画像を用いることで、罪の償いが免除される(=煉獄の苦しみを軽減できる)という教え。自分のためだけではなく、すでに死んだ人に対しても有効とされる。

 

⑧マリア無原罪の御宿り

「マリアは神の恵みの特別なはからいによって、原罪の汚れととがを存在のはじめから一切受けていなかったという教え。

⑨マリアは共同贖罪者

マリアがイエス・キリストと協力して人類を贖ったという教え。

⑩聖母の被昇天

マリアが、キリストのように死後肉体を持って復活し(或いは死および老いを体験せずに)天に上げられたという教え。

 

⑪偶像礼拝の勧め

キリスト像、マリア像、聖人像に向かっての祈祷、家庭祭壇、カテキズムや公式教理から十戒の第二戒をもみ消している。

守護聖人信仰

聖人が場所・目的に応じて、願いを叶える守り神として信仰される。

⑬メダイ・スカプラリオ(お守り信仰)

特に緑のスカプラリオは、キリスト教の信者でなくても、身につけて毎日少なくとも一度この裏に書いてある祈りを唱えれば、幸福がもたらされるとされる。

 

⑭幼児洗礼

一部のプロテスタントでも行われているが、自主的な信仰を告白できない幼子に、勝手に洗礼を授け、本人が信じていなくても「クリスチャン」にしてしまう。

 

⑮司祭の結婚を禁止
それにより、たくさんの小児性愛者を生み出している。虐待された児童には口封じ(犯罪の隠蔽工作)をしながら、虐待した司祭には保護を加え、他の教区へ次々派遣して、犯罪を拡大させている。

 

 

ちなみに、カトリック教会の間違いについて、プロテスタントの牧師たちの態度は、

①知っているけれど、対立することでキリスト教のイメージ悪化を恐れて、うやむやにしている(牧師が、福音ではなく、イメージで人を救おうとしている点が問題)。

②不勉強・無知のゆえ、気付いていない

 

 

(注:個々のカトリック信者を非難する目的ではなく、ローマ・カトリック教会という組織がいかに人を滅びに追いやっているかを明らかにするために書きました。

個々のカトリック信者がみな以上の教えを受け入れているわけではありません。多くの信者は、カトリック教会がどういう公式見解をしているかをほとんど知らないのです。)

オススメ聖書通信講座

聖書を知るためには、まずご自身で聖書(66巻)そのものを読むことが大切です。

その上で、学びをしたければ、以下の「聖書通信講座」をお勧めします。教団教派によって若干の解釈の違い等あるかもしれませんが、プロテスタントの基本的な福音主義に立った教えをしています(私自身、甥子と一緒に子ども用の講座一通りと、大人用「神の言葉・聖書」講座をやってみて、確認したものです)。

通信費以外は基本的に無料で受けられます。

 

「まず教会に行く」というのはお勧めしません。近年、普通のプロテスタント教会の堕落・カルト化が進んでおり、一度組織(群れ)に関わってしまうと、少なからず抜け出しにくくなるからです。

教会に行きたければ、まず聖書を読み、基礎知識をある程度身につけてから行く方が安全です。無知の状態で行くと、簡単に誘導されてしまう危険性が高くなります。さらに、聖書に書いてある通りのキリストを自分自身で明確に信じ受け入れた後であれば、聖霊なる神様が働いて下さり、良い教会・悪い教会を見分けることが出来ます(長く通わないと分からないケースもあります)。

 

聖書とそこに書かれた神様は真実ですが、目に見える教会組織(人間の集まり)には間違いや偽りが混在していることを覚えておいて下さい。

なお、神の救いを受け、キリストに従って歩むのに、地域教会に所属しなければいけない訳ではありません。

 

 

「SLM聖書通信講座リスト」

 

大人用

<神の言葉・聖書>

1.聖書の特徴

2.聖書の預言

3.神の言葉・聖書

4.幸せな人生のために

5.教会・エクレシア

 

<メールボックスクラブ>

コースⅠ

1.天国と呼ばれる国

2.神はどんなお方?

3.勝利の道

4.神の言葉・聖書

5.イエスさまの来られる時

6.救いと報い

7.神が知ってほしい4つの事

コースⅡ

1.イエス・キリストとは?

2.力ある神

3.偉大な教え

4.神の小羊

5.よみがえりの主

6.全ての主

7.私達の仲保者

8.私達の来るべき王

9.私達の全て

10.私達の永遠の王

コースⅢ

1.創造

2.人間の創造

3.サタン

4.人間の堕落

5.アダムにあって

6.神の第二の人

7.新しく生まれる

8.キリストにあって

9.新しい関係

10.新しい王国

11.新しい主人

12.新しい力

13.世を愛してはいけません

14.サタンに打ち勝つ

15.クリスチャン生活

16.献身

17.キリストのからだなる教会

18.地方教会

19.キリストの大命令

20.神に承認される

21.人々をキリストに導く

(カタログで22番が抜けていました)

23.誘惑に勝つ方法

24.キリストにある勝利

25.キリストは再び来られます

 

<クリスチャン生活の実践(PCL)3課ずつ冊子になっています>

第1巻

1.事実信仰、感情

2.救われている確信の持ち方

3.最善の選択

第2巻

4.劣等感からの勝利

5.自分自身を受け入れる

6.あなたにとってイエスはリアル(現実的)な存在ですか?

第3巻

7.清い良心を得るパート1

8.清い良心を得るパート2

9.神の訓練

第4巻

10.神の権威

11.神の権威の代理人

12.神の懲らしめ

第5巻

13.心の奥底の必要を理解する1

14.心の奥底の必要を理解する2

15.満ち足りることを学ぶ

第6巻

16.怒りに対処する

17.反動と憤り

18.冷たい心から許す心へ

第7巻

19.正しい人間関係を築く1

20.正しい人間関係を築く2

21.互いに愛し合いなさい

第8巻

22.財政管理

23.献金についてのガイドライン

24.幸せな人生の秘訣

 

<Cのキーワードで学ぶ聖書の概観>

1課 はじめに

1)Creation(創造)

2課

2)Corruption(堕落)

3)Captain Noah(ノア船長)

3課

4)Confusion(混乱)

5)Call(アブラハムの召し)

4課

6)Charring Burden(重荷を携える)

7)Camp(テント生活)

5課

8)Conquest(征服)

9)Crown(冠)

6課

10)Captivity(捕囚)

11)Construction(再建)

7課

12)Conception(受胎)

13)Cross(十字架)

8課

14)Church(教会)

15)Catching Up(携挙)

9課

16)Chastisement(叱責)

17)Coming of Christ(キリストの再臨)

10課

18)Coronation(即位)

19)Condemnation(罪の宣告)

11課

20)Consummation(完成)

 

ヨハネ福音書からの光>

19ページの小冊子です。救いの確信のため、また個人伝道にお勧めです。

☆はじめに

☆聖書について

☆キリスト

☆あなたは生まれ変わりましたか?

☆救いのための4段階

 

 

子ども用

<見てやってみよう(幼稚園~小学生低学年)>

コースⅠ

1.赤い手押し車

2.神さまの美しい庭

3.クリスマス物語

4.怒ったハチ

5.私は幼すぎるでしょうか?

6.一番すてきなプレゼント

7.おばあちゃんの美しい家

コースⅡ

1.二つの誕生日

2.ティムと泥んこあそび

3.ティムとホーリーの祈り

4.暗い夜

5.逃げだした子馬フリスキー

6.悲しみと喜び

7.やんちゃな子犬

 

<ストーリータイム(小学校低学年)>

コースⅠ

1.まいごの子ねこ

2.スクラッピーが教えてくれたこと

3.たいせつな木

4.新しい男の子

5.すばらしいプレゼント

6.赤いトラック

7.つりへ出かけよう

コースⅡ

1.うれしい便り

2.文句ばかりの一日

3.一番大きなりんご

4.大きくなった小さなうそ

5.いじめっこ

6.雨ふり

7.だれが一番?

 

<探検隊(小学校高学年~中学生)>

コースⅠ

1.神さまはどんな方?パート1

2. 神さまはどんな方?パート2

3.私たちはどこから来たの?

4.私たちの敵はだれか?

5.約束された救い主はだれか?

6.イエスさまは本当に復活されたのか?

7.4つの質問

8.神さまの子どもになるには

9.再び来られるイエスさま

10.神が知ってほしい4つの事

コースⅡ

1.イエス・キリストは神さまです

2.イエス・キリストは全ての人の主です

3.神さまは私の味方です

4.私は神の家族の一員です

5.私はキリストの内に居ます

6.キリストが私の内に生きておられます

7.私の敵である「この世」

8.私の敵である自我

9.私の敵である悪魔

10.神さまは私を用いたいのです!

11.誰かをキリストに導く!

12.イエスさまは私を愛しておられます

 

<ベストフレンド(小学校高学年~中学生)>

コースⅠ

1.天国

2.全てのものを造られた神さま

3.罪はどこから来たの?

4.イエスさまは私の罪のために死なれました

5.イエスさまは今も生きておられます

6.あなたも神さまの子どもになれます

7.5つのすばらしいこと

8.イエスさまはわたしのベストフレンド

コースⅡ

1.イエスさまは約束の救い主

2.イエスさまは人となられた神

3.イエスさまは神の小羊

4.イエスさまは全ての主

5.私はキリストにあって受け入れられました

6.クリスチャン生活とは?

7.イエスさまの願いは私が神のものであると知ること

8. イエスさまの願いは私が従うこと

9. イエスさまの願いは私が祈ること

10.イエスさまの願いは私が主に似た者になること

11.イエスさまの願いは私が主にあって勝利すること

12. イエスさまの願いは私が友達を主のもとにみちびくこと

 

<マタイの福音書(聖書を楽しく読もうシリーズ)>

1.キリストの誕生(1~3章)

2.山の上の教え(4~6章)

3.病人とイエスさま(7~11章)

4.反対するパリサイ人(12~17章)

5.天の御国の教え(18~25章)

6.十字架(26~28章)

 

<連絡先>

SLM (Source of Light Ministries)聖書通信講座 日本支部

〒441-8691 豊橋南郵便局 私書箱23号

TEL&FAX 0532-48-3187

http://www.slmjapan.com/

E-mail seisho_tushin@yahoo.co.jp