なぜ善行によっては、天国へ行けないのか?

イザヤ 64:6

(新改訳)私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

(リビングバイブル) 私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。

 

全ての人は生まれつき罪を持っています。聖書でいう罪とは「造り主なる神様に対する反逆、不信、不敬、恩知らず、背を向けて生きていること」です。罪の問題を解決しなければ、その人は罪人のままですから、天国には入れず、地獄で裁きを受けなければなりません。


これは“(聖書の)神様に対する”罪ですから、いくら“人に”善行を行っても意味がありません(善行に価値がないというのではなく、救いにつながらないという意味)。

 

例えば人間のあいだの罪でも同じです。AさんがBさんに罪を犯した場合、被害者であるBさんに謝らずに、関係のないCさんに善行(あるいは謝罪)をいくら施しても、Aさんの罪は赦されません。CさんはAさんを褒めるかもしれませんが、Bさんが罪を赦してくれなくても当たり前です。“相手を間違えている”からです。


また、こう例えることもできます。Aさんは「地獄行き」の電車に乗っていました。しかしAさんは考えました。「地獄へは行きたくない。天国へ行きたい。」それで、同じ電車に乗っている人たちを愛し、親切にしてあげました。その人たちはAさんに感謝し喜びました。やがて電車は目的地に着きました。降りてみるとそこは「地獄」でした。

・・・なぜAさんは「天国」へ行けなかったのでしょうか?それは乗っている電車が「地獄行き」だったからです。Aさんがすべきことは、車内で善行することではなく、「地獄行き」電車を降りて、「天国行き」電車に乗り換えることでした(聖書で言う「悔い改め」とは、この180度方向転換<自己中心の生き方から神中心の生き方へ>を指しています)。


また「方向転換(悔い改め)」だけでは、不十分です。それは、過去に犯した罪の清算をしなければならないからです。しかし、その賠償金はあまりにも大きいので、人間が自分自身で支払うことはできません。それで、何と!被害を受けた方である神様ご自身が、それを身代わりに払ってくださることになりました。

罪のない神のひとり子イエス・キリストが、罪人である全人類の身代わりとなって、十字架で死んでくださったこと(何よりも高価な“いのち”を代償とされたこと)によって、罪の償いが完了しました。
父なる神様は、御子イエス様をよみがえらせることによって、「唯一の救い主」であることを証明(承認)されました。


神は人間に自由意志(選択の自由)を与えています。「天国行き(罪の赦し、永遠のいのち)」を希望する者には、「罪の悔い改め」と「主イエスのあがないの死・復活への信仰」によって、それを無償で与えてくれます。

牧師(になりたい人)は神学校に行く前に、まず神を恐れることを学ぶべき

ヤコブ3:1

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

教会の牧師たちが、もし神を恐れることを第一にしていれば、自分自身が怠けたり、信徒をいじめたり甘やかしたりすることは、まずなくなるはずです。

 


レビ19:14

あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。


レビ25:17

あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。


詩篇34:9

主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。


伝道者12:13~14

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。


マタイ10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 

 

救世軍創始者イリアム・ブースが献身者に対しこのような主旨のことを言った、と何かで聞いたことがあります。

「私はあなた方を3年間神学校に通わせるというような、まどろっこしいことをしたくない。それよりも、あなた方を3日間地獄へ送りたい。そうすれば命懸けで伝道するだろう。」

 

・・・しかし、現状は「この人はそもそも神を信じているのだろうか?」と疑いたくなる(あまりに神様を舐めきっている?!)ような、不信仰・不誠実・無責任な牧師ら指導者が多すぎます。

神様をも人をも愛しておらず、ただ自己保身(教勢や給料)のために、人(信者・未信者問わず)のご機嫌取りのようなことばかりしています。

 

指導者が腐っているので、教会員も腐敗しています。


箴言29:12

支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。

 

・・・完全な地域教会、完璧なクリスチャンは存在しないでしょう。しかし、はなっから「神に従うつもりはない(従っているつもり)」というようないい加減な態度は、速やかに悔い改めるべきです。牧師に限らず。

 

箴言1:7

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

アメイジング・ジャーニー「神の小屋」に含まれる13の異端(ムービーガイド誌の翻訳)

アメイジング・ジャーニー「神の小屋」異端性が、複数のクリスチャンから指摘されています。

私自身は原作本も映画も直接見てはいませんが、このような意見がある作品をキリスト教会が無批判で(または称賛して)受け入れている現状があるようで、それを危惧しています。

 

以下は、ムービーガイド誌の記事(https://www.movieguide.org/news-articles/thirteen-heresies-in-the-shack.html)から翻訳したものです。

(参照聖句の実際のみことばは、新改訳聖書第3版より個人的に補足しました)。

 

 「神の小屋」における13の異端

マイケル・ユーセフによって書かれた「神の小屋における13の異端」は、その小説や映画に13個の懸念事項があること、また聖書がそれらについて何と語っているかについて、呼びかけています:

 

異端の教え①父なる神はイエスと共に十字架に掛かられた」

 神の目は純粋であり、罪を見ることができないので、聖書は、神は私たちの罪を背負って十字架にかかられた最愛の御子を見ないであろうと、言っています。

ハバクク1:13「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」

マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。」)

 

異端の教え②神は彼の愛によって制限されるので、正義を実践することはできない」   

 聖書は、神の愛と正義が同じコインの両面であると宣言しています。同様に神の人格と性格の一部です

(イザヤ61:8「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」

ホセア2:19「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。」)

 

異端の教え③神は十字架上で、彼らが悔い改めるか否かにかかわらず、全人類を赦した。 何人かは神との関係を選択するが、そうでなくても神は全ての人を赦す。」  

 イエスは、彼に来る者だけが救われると説明しました。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え④「階層構造(上下関係)は、教会や政府にかかわらず、邪悪なものである」

 私たちの神は命令する神です。

(ヨブ 25:2「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」)

 

異端の教え⑤「神は人間の罪を決して裁かない」

 神の言葉は、御子イエス・キリストを信じることによって神の裁きから逃れるように、人々に繰り返し言います。

(ローマ2:16「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」

Ⅱテモテ4:1-3「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、」)

 

異端の教え⑥「神格には階層構造がなく、まさに統一された輪である」

 聖書は、イエスが御父の意志に服従したと言います。これは、ある人物が他の人物よりも優れているか、またはより優れていることを意味しません。まさに独特です。イエスは「わたしはわたしを送ってくださった神のみこころを行うために来た。 わたしは父に従うためにここにいる」と言われました。また「わたしはあなたに聖霊を送ります」とも。

ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

ヨハネ6:44「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」)

 

関連:Movieguide®の管理者エディタからこの記事を読んで、神の小屋の肯定的および否定的な性質についても読んでください。

 

異端の教え⑦「神は人間の願望と選択を受け入れる」

 「私たちを受け入れる神」とは程遠く、イエスは「永遠の命につながる道は狭い」と言われました。私たちは神の栄光と、神が私たちのために成し遂げてくださったことのゆえに、すべてのことにおいて神に服従するために存在します。

(マタイ7:13-15「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」)

 

異端の教え⑧「愛ゆえに、公義は決してなされない」

 聖書は、神の愛が拒絶され、救済と赦しの申し出が拒否されるとき、公義がなされなければならないことを教えます。そうでなければ、神はいたずらイエス・キリストを十字架で死なせるために送ったことになります。

(マタイ12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」

ローマ3:25-26「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」)

 

異端の教え⑨「永遠の裁きや地獄の苦しみのようなものはない」

 イエスご自身の地獄の描写は鮮明です。それは否定できません。

(ルカ12:5「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

ルカ16:23「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」)

  

異端の教え⑩「イエスは全ての人とともに、神へ通じる異なった旅を歩いているので、神のもとへ行くためには、どんな道であっても問題ではない」

 イエスは言われました。「わたしが道、真実、命です。誰もわたしによらなければ、父のところへは来ないであろう」。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え⑪「エスは常に私たちとともに変容している」

 天の輝きの中に住まわれるイエスは、神の右に座して、宇宙を統治し支配しておられます。 聖書には「彼はきのうも今日も永久に存在しているので、変わることがない」と書かれています。

(ヘブル11:12「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」

ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

ヤコブ1:17「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」)

 

異端の教え⑫「誰でも天国へ行けるので、信仰も神との和解も必要ない」

 イエスは「わたしを信じる者だけが永遠の命を得るだろう」と言われました。

ヨハネ3:15「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ヨハネ5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

ヨハネ6:40「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」)

 

異端の教え⑬「神を紙に縮小化しているので、聖書は真実ではない」

 聖書は神の息吹です。 確かに、1800年間に渡って多くの人が紙にペンで書きました。(それは例えて言ってみれば、)それぞれ異なる職業と異なる背景でしたが、聖霊が彼らの作業に神の言葉を注入したのです。これらの人々は創世記から黙示録へと同じメッセージを書いていました。もし聖書の中でキリストの箇所についてもっと知りたいのであれば、「私たちはキリストを説教する」(マイケル・ユーセフ著)を読んでください。

(Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」)

エキュメニズムは、現代のバベルの塔(大バビロン)

聖書が語り、神様が命じる一致は、聖霊」による一致です。
エペソ 4:3に「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と書いてあるとおりです。

 

一方、世の終わりになって盛んになっている、カトリックエキュメニカル派が語る一致は、ヒューマニズム(人間、この世が中心・基準)」による一致です。

彼らは「節操がない不誠実なこと」を「寛容」と詐称し、「馴れ合い」を「愛」と自称しています。

彼らは聖書の「絶対者」「審判者」「完全なる正義」である神様、「唯一の救い主」であるキリストを否定します。自分たちの願望に合わせて、聖書の中から都合の良い箇所だけ信じ、都合の悪い箇所を否定します。

 

彼らが信じているのは、「罪を裁かない(不正な)神」、「悔い改めなくても悪を許容してくれる神」、「世界中にたくさんいる救い主のひとりとしてのイエス・キリスト」なのです。

 

聖書の教えを踏みにじっておきながら、なぜか「キリスト教」という名称だけは欲しいようですが、「キリスト教」という名称が、ブランド・ファッションとしてそれほど魅力があるのでしょうか?・・・答えはガラテヤ1:6~7にあります。

 

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

 

続く8~9節には、こう警告されています。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

 

神の御言葉ではなく、自分たちが考え出した(聖書に反する)伝統に従っている者に対して、主イエス様ご自身も厳しく叱っています。


マタイ15:1~9
 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

  偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 

<「の言葉・教え」ではなく、「この世の言葉・人間の教え」によるヒューマニズム一致運動が、バベルの塔の罪>


創世記11:1~9

  さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
  そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

神様が望んでおられるのは、この世の言葉・人間の教え(エキュメニズム)による一致ではなく、神の御言葉であるイエス・キリスト(聖書)及び聖霊に基づく一致です。

牧師の本音はどちらでしょうか? たいていの牧師は、神様のためではなく、自分のために働いている

<牧師の本音はどちらでしょうか?>
A.人々が、自分(その牧師)の牧会する教会に来なくてもいいから、イエス様を信じて救われて欲しい。
B.人々が、救われなくてもいいから、自分(その牧師)の牧会する教会に来て欲しい。

 

牧師とその地域教会がやっていることから判断してみましょう。


・集会案内などで「教会に来てください」と記載しても、「主イエス・キリストを信じて救われてください」とは書かない。
・教会ホームページを見ても、教会の案内ばかりで、「すべての人は主イエス・キリストを信じて救われる必要がある」ことを載せていない。
・肝心の「キリストの十字架の救い」を伝えないで、コンサート、バザー、〇〇教室、クリスマス会、カウンセリングなどの「呼び込み(勧誘)」を頑張っている(あるいは、それさえやらない)。
・自分の教会には来そうにない地域の人には興味がない。
・地方(田舎)では人口が少なく、大きい教会を作ることが難しいので、福音を聞いたことがない人がいても、田舎ではほとんど伝道しない。
・人(お客さん)が教会に来なくなると困るので、お客さんの嫌がる「地獄」や「悔い改め」は語らない。
・教会の看板や掲示板に「教団教派教会名、牧師名」は書いていても、「みことば」が書いていない。
・体調が悪くても、教会(日曜礼拝)に来させる。
・本当に信じていない人にバプテスマを授ける。
・大きい教会堂を建てたがっている。
・やたらと教勢(出席人数)を気にする。
・キリスト(聖書)ではなく、牧師に依存させようとしている。
・聖書に書いてあるとおり「外に出て行って」の伝道ではなく、教会内に閉じこもり、説教だけしている。
・救霊の気持ち(滅び行く人々に対しての憐れみの心)がほぼ無い。
・「教会に人を呼ぶことが伝道だ」などといい加減なことを言っている。

クリスチャンがすべき生き方は「自己犠牲」・・・イエス様が模範を示してくれたように

多くの教会、クリスチャンの間で、聖書の学びが「“自分の”知識的欲求を満たす」目的になってしまっているような気がします。

 

現実社会で役に立たない(他者のために実践しない)、「“自分の”頭の中だけの信仰」。

 

クリスチャンの生き方は、イエス様がされたような「自己犠牲(他者中心)」であるはずなのに、信じた後も「自己中心」が改まっていな信者が多いようです。

 

簡単に言うと、“自分が”得するために神様を信じている。・・・それゆえ、せっかく聖書を読み学んでも、信仰の実を結ぶことがない。

 

心の動機を常にチェックする必要があるでしょう。

キリスト教会で「クリスマス」をすべきか?

キリスト教会で「クリスマス」をすべきかどうか?賛否両論ありますので、以下に個人的な見解を述べさせていただきます。

 

キリスト教会での「クリスマス」の問題点

①12月25日をイエス・キリストの「誕生日」と言うこと・・・この間違いは明らかなので、詐称していることになります。

(どうすれば良いか)→言うならば「誕生記念日」にすべき。たとえ異教がルーツであっても、同じ日にキリスト教のお祭りをしてはいけない、とは言えないでしょう。

 

②過剰・異常な取り組み(お金・時間・労力をかけすぎ)・・・お金:クリスマス特別献金の要求。時間:数ヶ月~1年も前から準備開始。労力:教会員総動員で奉仕半強要。一回のみならず「子供クリスマス会」「青年クリスマス会」「婦人クリスマス会」「クリスマス礼拝」「クリスマスコンサート」等、教会によっては何回もやる。疲れ果てている教会員も多い。

(どうすれば良いか)→キリスト降誕を祝うことは、聖書的でも非聖書的でもない。いわゆる「無聖書的(聖書で良いとも悪いとも言っていない)」なので、個人の信仰の自由で行えば良い。教会(牧師)が強要してはいけない。

 

③「伝道のため」と言うが、ほとんど伝道になっていない・・・クリスマスに限った話ではないが、「伝道もどき」をやっている。「イエス・キリストの十字架による贖罪/福音の核心」を伝えないで、クリスマス集会への勧誘、賛美歌発表会、プレゼント交換、教会内での盛り上がりに終始している。いつまでたっても「家族」「友人」が対象で、福音を伝えるべき「(十字架の救いを聞いたことのない)すべての人」は無視されている。牧師も「あぁ、人が(教会堂に)来て良かった」で終わり。

(どうすれば良いか)→最低限、きちんとした「福音宣教」をすべき。

 

その他・・・クリスマス撲滅運動をしても意味はない。せっかくの伝道のチャンスを、あえて無にする必要はないでしょう。