「三位一体さえ信じていれば正統派」という嘘

多くのクリスチャン(牧師・信徒問わず)が、「三位一体を認めていれば正統的キリスト教であって、異端ではない」と思い込んでいます。

 

この考え方は、いつの間にか何者かに騙されているのです。聖書で「異端とは三位一体を否定する者である」とは定義されていません。

聖書的でないキリスト教徒たち(宗教家)が、勝手に定義したものを、福音主義のクリスチャンたちも、いつの間にか基準にしてしまっているのです。

 

三位一体を信じていても、他の主要な教えで聖書に反していれば、それは「異端」であり、偽りの福音です

 

聖書では、正しい教えに留まるように、間違った教えに惑わされないように、再三再四警告しています。特に、

第一コリントでは、<人につくこと、人間を誇ること、不品行・偶像礼拝、復活>

第二コリントでは、<にせ使徒による別のイエス、異なった霊、異なった福音>について。

ガラテヤ書では、<ほかの福音、ユダヤ教、行いによる救い、悪いパン種、肉を誇ること>について。

コロサイ書では、やはり<ユダヤ教、行いによる救い>について。

第二テサロニケでは、<背教、不法の人、サタンの働き>について。

第一テモテでは、<空想話・系図、惑わす霊・悪霊の教え、禁欲主義、霊知>

第二テモテでは、<健全な教えに留まること、復活の否定、終わりの時代の困難、悪人・詐欺師、空想話>について。

テトスでは、<反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者、系図、分派>について。

ヘブル書では、<堕落、信仰・訓練>について。

第二ペテロでは、<私的解釈・曲解、にせ預言者、にせ教師、作り事のことば、バラムの道>について。

第一ヨハネでは、<反キリスト、惑わそうとする人たち、悪魔のしわざ、にせ預言者、偽りの霊、命令を守ること、偶像>

第二ヨハネでは、<惑わす者、反キリスト>について。

ユダでは、<ひそかに忍び込んで来た者、カインの道、バラムの迷い、不敬虔な者>について。

黙示録では、<使徒と自称している者、ニコライ派、ユダヤ人と自称している者、サタンの王座、バラムの教え、イゼベル・預言者と自称している者、サタンの会衆、悔い改め、竜・獣・にせ預言者、大淫婦>について。

 

・・・これほど警告されているのに、悪い教えに対し無防備・無関心なクリスチャンが多すぎます。

特に、牧師がこの世や人間に迎合しているため、すでに悪い教えが次々教会に忍び込んでいます。

 

ローマ・カトリック教会、リベラル派、エキュメニカル派の非聖書的な悪い教えに気をつけてください。

「天国」「地獄」の聖書的段階について

一般に「天国」「地獄」という言い方をされますが、これはかなり大雑把な名称です。

 厳密には、

☆「天国」は3段階に分かれています。

①「パラダイス」:死後キリスト信者が行くところ。楽園だが体はまだない。

ルカ 23:43

 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

 

②「千年王国」:キリスト再臨後に現れる、キリストが治める地上の楽園。おそらく回復されたエデンの園のようなところ。復活したキリストと同じ「栄光の(新しい次元の)体」が与えられる。

黙示録 20:1~9

 また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、 底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。  また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行う権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、地の四方にある諸国の民、すなわち、ゴグとマゴグを惑わすために出て行き、戦いのために彼らを召集する。彼らの数は海べの砂のようである。彼らは、地上の広い平地に上って来て、聖徒たちの陣営と愛された都とを取り囲んだ。すると、天から火が降って来て、彼らを焼き尽くした。

 

③「新天新地」:最後の大審判の後に再創造される、全く新しい天と地(永遠に続く天国の最終型・完成型)。神の住まい。 「千年王国」と同じ栄光の体がある。罪は一切存在しない。
黙示録21:1~4

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

 

 ★「地獄」は2段階に分かれています。

①「ハデス」:よみ(黄泉、陰府)とも言われる、死後不信者の行くところ。苦しみの炎の中。体はない。

ルカ 16:23~25

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 

②「ゲヘナ(「天国」の③に相当)」:火と硫黄の燃える池。最後の大審判の後に、不信者が送られる永遠の刑罰の場所、最終型。体がある。すでに裁きを受けた悪魔・悪霊がいる場所。

ヨハネ 5:27~29

 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。 

 黙示録20:10~15

 そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。

 また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。

 

現時点では、キリストを信じると「パラダイス」に行き、信じないと「ハデス」に行く、というのが正確な言い方です(千年王国、新天新地、ゲヘナはまだ現れていない)。

・なお、主イエス・キリストを信じるとき、その人の心の内から「天国(神の国)」が始まります。この地上において「天国の前味」を感じることができるのです。

・また、死んだあとで行き先を変えることはできません(いわゆる死後のセカンド・チャンスはありません)。今の世で生きているうちに、信仰によってどちらかを選ばなくてはならないのです。

カトリック教会が主張する「煉獄」は聖書の教えではありません。

 

たまにクリスチャンでも「私は天国に行った」「地獄を見てきた」という霊的体験談をされる方がいますが、ほとんど上記のような「段階」的区別がありません。実際にそこ(そうであれば理論上「パラダイス」か「ハデス」)へ行ったのか?そのようなものを(まだ存在しない「新天新地」や「ゲヘナ」を時間を超えて預言的幻として)見せられただけなのか?等、極めて曖昧です。

聖書的検証がきちんとできないような個人体験は、せいぜい参考程度に留めてください。

聖霊の3つの別体験(新生、満たし、賜物)と教派による対応の違い

聖霊なる神様はお一人ですが、信者にもたらす働きには、大きく分けて3種類あります。

 

内住(新生)・・・救いのために必要。人生で一度の体験(棄教しない限り、失われることはなく、持続される)。

聖書に書いてあるとおりに、罪を悔い改め、キリストを主と信じた際に、その信じた人の心の中に聖霊なる神様が住まわれること。信者自身の霊(本質)が新しく生まれ変わること。救われた証拠(救いの確信をもたらす)。

 

ヨハネ3:3~5

エスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 

ローマ 8:9

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

Ⅰコリント12:3

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません

 

Ⅱコリント1:22

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

 

エペソ1:13~14

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 

ヨハネ 4:13

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 

満たし(聖化)・・・神様への思いや臨在に特にあふれること。さらに、実際に聖く生きるため、成長して豊かな実を結ぶために必要。人生で何度もある(求め続けるべき)体験。

すでに新生したキリスト者が、罪や悪に負けないで神の御言葉を実践して生きて行くため、キリストの似姿に変えられて行くために、聖霊の力(助け)が与えられること。

 

使徒 1:8

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

ローマ8:4

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 

Ⅱコリント3:18

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

ガラテヤ5:16~23

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 

エペソ5:18

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 

特別な賜物・・・なくてはならない訳ではないが、あるに越したことはない。人生において一度の体験。

特別な能力が与えられること。

 

Ⅰコリント12:8~11

 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

 

「①新生(内住)」なくして「②満たし」「③特別な賜物」を受けることはありません。「新生」はすべての信者の基本です。

 

「①新生(内住)」と同時に「②満たし」を受けることは十分あります。

さらに「③特別な賜物」も同時に受けることはあります。

 

「②満たし」がないのに「③特別な賜物」を受けることはないでしょう(特別な賜物には、満たしが伴う)。しかし「満たし」を受けても「特別な賜物」を受けないことはあります。

 

「満たし」は一度きりのものではありません。常に求め続けることで、キープすべきものです。一度(一時)満たされたから、満たされ続けるというものではありません。

 

 

<教団教派による見解の違い>

A.狭義での「福音派」(きよめ派・聖霊派以外の福音派。改革派、ルター派、バプテスト系など)

①「新生(内住)」は認めています。

②「聖め」は「救い」と同義で、新生と同時に聖めも受け、完了したと考えています。

「満たし」がないので、御言葉を実践する力(あるいはその意志)がほとんどなく、”救われてよかったね”で終わってしまっています。

③「賜物」に関しては、以下の聖句の「完全なもの」を「聖書を指している」という解釈に基づき、「使徒の時代のみあったが、もう終わってしまい、現在はもう(賜物は)ない」と考えています。

Ⅰコリント 13:8~10

 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

 

しかし、この聖句の「完全なもの」は聖書を指しているのではなく、「天国での神・キリスト様との出会い」を指しています。続く以下の聖句からそれが明らかです。

 

Ⅰコリント 13:12

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

B.きよめ派(ホーリネス、インマヌエル、メソジスト系など)

①「新生(内住)」②「満たし(聖化)」の両方を認めています。

 

C.聖霊派(ペンテコステ派、カリスマ派、第三の波/途中から聖霊派に転向した個人及びグループ)

①「新生(内住)」②「満たし」③「賜物」の3種を認めています。

ただし、②は、感覚(神の臨在体験)的な面が強調され、聖く生きるという面はやや弱いです。

何より③を強調しています。

②と③をきちんと分けて理解している人は少ないと思われます。

 

 

ちなみに聖書の「聖霊バプテスマ」という言葉が何を指しているか?もまた教団教派によって見解が分かれるところですが、おそらく②「聖霊の満たし」のことを指していると思われます。

私自身は長く聖霊派にいましたので、「聖霊の賜物(とくに異言)」を「聖霊バプテスマ」と教わり、そう思ってきましたが、最近もう一度ピュアに聖書を研究してみた結果、「聖霊の満たし」を「聖霊バプテスマ」と呼ぶ(定義する)方が、理にかなっていると判断しました。

(ただし「聖霊バプテスマ」という言葉がどちらを指すかの論争は、不毛であり、あまり意味がないでしょう。)

 

狭義の福音派の大きな問題点は、「聖霊バプテスマ」を「聖霊の内住(新生)」と勘違いしていることです。「聖霊バプテスマ」は明らかに「聖霊の内住(新生)」とは別の体験です(「聖霊の満たし」を指すにしても「聖霊の賜物」を指すにしても)。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「満たし」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒4:8

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 

使徒4:31

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 

使徒6:3~5

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

 

使徒7:55

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

 

使徒9:17

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 

使徒11:24

彼(=バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

 

使徒13:9

しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

 

使徒13:52

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 

ローマ15:13

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「賜物」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒8:14~18

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

(*御霊が与えられるのを「見た」ことに注目。つまり目に見える現象があった。ここではおそらく「異言」の賜物)

 

Ⅰコリント12:31

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 

Ⅰコリント14:1

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

Ⅰコリント14:12

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

 

 

福音派は自分が知らない(体験していない)ことに関して、それを体験している「きよめ派」「聖霊派」から、謙遜な心で学ぶ必要があります。

分からないことは素直に「分かりません」というべきであり、「ない」「終わった」「彼らは間違っている(異端だ)」などと言ってはいけません。それは高慢の罪に他なりません。

一方、聖霊派の中には「霊的な現象」を聖書より優先し、きちんと判断せずに「霊的なことをなんでも受け入れる」悪い傾向を持っている人達がいるのも事実です。そういう人たちは、必要なことに関しては、福音派から学ぶ必要があるでしょう。吟味の欠如した「いい加減な聖霊派」では、福音派の人をつまずかせるだけです。

なぜ善行によっては、天国へ行けないのか?

イザヤ 64:6

(新改訳)私たちはみな、汚れた者のようになり、私たちの義はみな、不潔な着物のようです。私たちはみな、木の葉のように枯れ、私たちの咎は風のように私たちを吹き上げます。

(リビングバイブル) 私たちはみな罪の毒に冒され、汚れきっています。 これこそ正義だという最上の着物をまとっても、悪臭を放つぼろきれにすぎません。 私たちは秋の木の葉のように色あせ、しおれて落ちます。 あえなく罪の風に吹き飛ばされるばかりです。

 

全ての人は生まれつき罪を持っています。聖書でいう罪とは「造り主なる神様に対する反逆、不信、不敬、恩知らず、背を向けて生きていること」です。罪の問題を解決しなければ、その人は罪人のままですから、天国には入れず、地獄で裁きを受けなければなりません。


これは“(聖書の)神様に対する”罪ですから、いくら“人に”善行を行っても意味がありません(善行に価値がないというのではなく、救いにつながらないという意味)。

 

例えば人間のあいだの罪でも同じです。AさんがBさんに罪を犯した場合、被害者であるBさんに謝らずに、関係のないCさんに善行(あるいは謝罪)をいくら施しても、Aさんの罪は赦されません。CさんはAさんを褒めるかもしれませんが、Bさんが罪を赦してくれなくても当たり前です。“相手を間違えている”からです。


また、こう例えることもできます。Aさんは「地獄行き」の電車に乗っていました。しかしAさんは考えました。「地獄へは行きたくない。天国へ行きたい。」それで、同じ電車に乗っている人たちを愛し、親切にしてあげました。その人たちはAさんに感謝し喜びました。やがて電車は目的地に着きました。降りてみるとそこは「地獄」でした。

・・・なぜAさんは「天国」へ行けなかったのでしょうか?それは乗っている電車が「地獄行き」だったからです。Aさんがすべきことは、車内で善行することではなく、「地獄行き」電車を降りて、「天国行き」電車に乗り換えることでした(聖書で言う「悔い改め」とは、この180度方向転換<自己中心の生き方から神中心の生き方へ>を指しています)。


また「方向転換(悔い改め)」だけでは、不十分です。それは、過去に犯した罪の清算をしなければならないからです。しかし、その賠償金はあまりにも大きいので、人間が自分自身で支払うことはできません。それで、何と!被害を受けた方である神様ご自身が、それを身代わりに払ってくださることになりました。

罪のない神のひとり子イエス・キリストが、罪人である全人類の身代わりとなって、十字架で死んでくださったこと(何よりも高価な“いのち”を代償とされたこと)によって、罪の償いが完了しました。
父なる神様は、御子イエス様をよみがえらせることによって、「唯一の救い主」であることを証明(承認)されました。


神は人間に自由意志(選択の自由)を与えています。「天国行き(罪の赦し、永遠のいのち)」を希望する者には、「罪の悔い改め」と「主イエスのあがないの死・復活への信仰」によって、それを無償で与えてくれます。

牧師(になりたい人)は神学校に行く前に、まず神を恐れることを学ぶべき

ヤコブ3:1

私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。

 

教会の牧師たちが、もし神を恐れることを第一にしていれば、自分自身が怠けたり、信徒をいじめたり甘やかしたりすることは、まずなくなるはずです。

 


レビ19:14

あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。


レビ25:17

あなたがたは互いに害を与えてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしはあなたがたの神、主である。


詩篇34:9

主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。


伝道者12:13~14

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。


マタイ10:28

からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。

 

 

救世軍創始者イリアム・ブースが献身者に対しこのような主旨のことを言った、と何かで聞いたことがあります。

「私はあなた方を3年間神学校に通わせるというような、まどろっこしいことをしたくない。それよりも、あなた方を3日間地獄へ送りたい。そうすれば命懸けで伝道するだろう。」

 

・・・しかし、現状は「この人はそもそも神を信じているのだろうか?」と疑いたくなる(あまりに神様を舐めきっている?!)ような、不信仰・不誠実・無責任な牧師ら指導者が多すぎます。

神様をも人をも愛しておらず、ただ自己保身(教勢や給料)のために、人(信者・未信者問わず)のご機嫌取りのようなことばかりしています。

 

指導者が腐っているので、教会員も腐敗しています。


箴言29:12

支配者が偽りのことばに聞き入るなら、従者たちもみな悪者になる。

 

・・・完全な地域教会、完璧なクリスチャンは存在しないでしょう。しかし、はなっから「神に従うつもりはない(従っているつもり)」というようないい加減な態度は、速やかに悔い改めるべきです。牧師に限らず。

 

箴言1:7

主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

アメイジング・ジャーニー「神の小屋」に含まれる13の異端(ムービーガイド誌の翻訳)

アメイジング・ジャーニー「神の小屋」異端性が、複数のクリスチャンから指摘されています。

私自身は原作本も映画も直接見てはいませんが、このような意見がある作品をキリスト教会が無批判で(または称賛して)受け入れている現状があるようで、それを危惧しています。

 

以下は、ムービーガイド誌の記事(https://www.movieguide.org/news-articles/thirteen-heresies-in-the-shack.html)から翻訳したものです。

(参照聖句の実際のみことばは、新改訳聖書第3版より個人的に補足しました)。

 

 「神の小屋」における13の異端

マイケル・ユーセフによって書かれた「神の小屋における13の異端」は、その小説や映画に13個の懸念事項があること、また聖書がそれらについて何と語っているかについて、呼びかけています:

 

異端の教え①父なる神はイエスと共に十字架に掛かられた」

 神の目は純粋であり、罪を見ることができないので、聖書は、神は私たちの罪を背負って十字架にかかられた最愛の御子を見ないであろうと、言っています。

ハバクク1:13「あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。」

マタイ27:45「さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。」)

 

異端の教え②神は彼の愛によって制限されるので、正義を実践することはできない」   

 聖書は、神の愛と正義が同じコインの両面であると宣言しています。同様に神の人格と性格の一部です

(イザヤ61:8「まことに、わたしは公義を愛する主だ。わたしは不法な略奪を憎む。わたしは誠実を尽くして彼らに報い、とこしえの契約を彼らと結ぶ。」

ホセア2:19「わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。」)

 

異端の教え③神は十字架上で、彼らが悔い改めるか否かにかかわらず、全人類を赦した。 何人かは神との関係を選択するが、そうでなくても神は全ての人を赦す。」  

 イエスは、彼に来る者だけが救われると説明しました。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え④「階層構造(上下関係)は、教会や政府にかかわらず、邪悪なものである」

 私たちの神は命令する神です。

(ヨブ 25:2「主権と恐れとは神のもの。神はその高き所で平和をつくる。」)

 

異端の教え⑤「神は人間の罪を決して裁かない」

 神の言葉は、御子イエス・キリストを信じることによって神の裁きから逃れるように、人々に繰り返し言います。

(ローマ2:16「私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって人々の隠れたことをさばかれる日に、行われるのです。」

Ⅱテモテ4:1-3「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思って、私はおごそかに命じます。みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、」)

 

異端の教え⑥「神格には階層構造がなく、まさに統一された輪である」

 聖書は、イエスが御父の意志に服従したと言います。これは、ある人物が他の人物よりも優れているか、またはより優れていることを意味しません。まさに独特です。イエスは「わたしはわたしを送ってくださった神のみこころを行うために来た。 わたしは父に従うためにここにいる」と言われました。また「わたしはあなたに聖霊を送ります」とも。

ヨハネ4:34「イエスは彼らに言われた。『わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」

ヨハネ6:44「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」

ヨハネ14:26「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。」)

 

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異端の教え⑦「神は人間の願望と選択を受け入れる」

 「私たちを受け入れる神」とは程遠く、イエスは「永遠の命につながる道は狭い」と言われました。私たちは神の栄光と、神が私たちのために成し遂げてくださったことのゆえに、すべてのことにおいて神に服従するために存在します。

(マタイ7:13-15「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。」)

 

異端の教え⑧「愛ゆえに、公義は決してなされない」

 聖書は、神の愛が拒絶され、救済と赦しの申し出が拒否されるとき、公義がなされなければならないことを教えます。そうでなければ、神はいたずらイエス・キリストを十字架で死なせるために送ったことになります。

(マタイ12:20「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」

ローマ3:25-26「神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」)

 

異端の教え⑨「永遠の裁きや地獄の苦しみのようなものはない」

 イエスご自身の地獄の描写は鮮明です。それは否定できません。

(ルカ12:5「恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。」

ルカ16:23「その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。」)

  

異端の教え⑩「イエスは全ての人とともに、神へ通じる異なった旅を歩いているので、神のもとへ行くためには、どんな道であっても問題ではない」

 イエスは言われました。「わたしが道、真実、命です。誰もわたしによらなければ、父のところへは来ないであろう」。

ヨハネ14:6「イエスは彼に言われた。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」)

 

異端の教え⑪「エスは常に私たちとともに変容している」

 天の輝きの中に住まわれるイエスは、神の右に座して、宇宙を統治し支配しておられます。 聖書には「彼はきのうも今日も永久に存在しているので、変わることがない」と書かれています。

(ヘブル11:12「そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。」

ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」

ヤコブ1:17「すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。」)

 

異端の教え⑫「誰でも天国へ行けるので、信仰も神との和解も必要ない」

 イエスは「わたしを信じる者だけが永遠の命を得るだろう」と言われました。

ヨハネ3:15「それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」

ヨハネ3:36「御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。」

ヨハネ5:24「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

ヨハネ6:40「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」)

 

異端の教え⑬「神を紙に縮小化しているので、聖書は真実ではない」

 聖書は神の息吹です。 確かに、1800年間に渡って多くの人が紙にペンで書きました。(それは例えて言ってみれば、)それぞれ異なる職業と異なる背景でしたが、聖霊が彼らの作業に神の言葉を注入したのです。これらの人々は創世記から黙示録へと同じメッセージを書いていました。もし聖書の中でキリストの箇所についてもっと知りたいのであれば、「私たちはキリストを説教する」(マイケル・ユーセフ著)を読んでください。

(Ⅱテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」)

エキュメニズムは、現代のバベルの塔(大バビロン)

聖書が語り、神様が命じる一致は、聖霊」による一致です。
エペソ 4:3に「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と書いてあるとおりです。

 

一方、世の終わりになって盛んになっている、カトリックエキュメニカル派が語る一致は、ヒューマニズム(人間、この世が中心・基準)」による一致です。

彼らは「節操がない不誠実なこと」を「寛容」と詐称し、「馴れ合い」を「愛」と自称しています。

彼らは聖書の「絶対者」「審判者」「完全なる正義」である神様、「唯一の救い主」であるキリストを否定します。自分たちの願望に合わせて、聖書の中から都合の良い箇所だけ信じ、都合の悪い箇所を否定します。

 

彼らが信じているのは、「罪を裁かない(不正な)神」、「悔い改めなくても悪を許容してくれる神」、「世界中にたくさんいる救い主のひとりとしてのイエス・キリスト」なのです。

 

聖書の教えを踏みにじっておきながら、なぜか「キリスト教」という名称だけは欲しいようですが、「キリスト教」という名称が、ブランド・ファッションとしてそれほど魅力があるのでしょうか?・・・答えはガラテヤ1:6~7にあります。

 

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

 

続く8~9節には、こう警告されています。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

 

神の御言葉ではなく、自分たちが考え出した(聖書に反する)伝統に従っている者に対して、主イエス様ご自身も厳しく叱っています。


マタイ15:1~9
 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

  偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 

<「の言葉・教え」ではなく、「この世の言葉・人間の教え」によるヒューマニズム一致運動が、バベルの塔の罪>


創世記11:1~9

  さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
  そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

神様が望んでおられるのは、この世の言葉・人間の教え(エキュメニズム)による一致ではなく、神の御言葉であるイエス・キリスト(聖書)及び聖霊に基づく一致です。