いろんなイエス・キリスト・・・聖書とは違う「別のイエス」

私たちを愛し、永遠の命を与えると約束してくださった本物イエス・キリストは、“聖書に書いてある通りの”主イエス・キリストです。

そして、聖霊なる神様が「新生」体験を通して、その真実を保証してくださいます。

 

しかし、その主イエス様とは違う「別のイエス・キリスト(同名異人)」を信じ教えているグループが存在します。

「私たちはイエス・キリストを信じています」とか「私たちはクリスチャンです」などと自称していますが、彼らの信じるイエスは聖書のイエス様とは違う「類似粗悪品」なので、騙されないように気を付けなければなりません。

 

 <イエス・キリスト

カトリック・イエス・・・聖書ではなく聖伝に基づき、ローマ・カトリック教会バチカン)が教えるイエス

唯一の救い主ではない。人間マリアより実質格下。正義はなく、悪も異教オカルトもそのまま許容する(信じなくても救われる)。時代と共に性質が変貌する。実際のパンとぶどう酒に何回も変身し、信者に食べられてしまう。

エキュメニカル・イエス・・・聖書ではなくヒューマニズムに基づき、プロテスタントエキュメニカル派が教えるイエス

唯一の救い主ではない。神の愛ではなく人間的馴れ合いを説く。正義はなく、悪も異教オカルトもそのまま許容。

リベラル・イエス・・・聖書ではなく啓蒙思想や科学・理性・この世の常識に基づき、プロテスタント内リベラル派が教えるイエス

神ではないただの人間。処女降誕もせず、復活もせず、奇跡も行わない。

モルモン・イエス・・・聖書ではなくモルモン書に基づき、末日聖徒イエス・キリスト教会(ジョセフ・スミス)が教えるイエス

もともと人間だった神々の一人。

ものみのイエス・・・新世界訳という改ざん聖書・組織の出版物に基づき、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)・統治体が教えるイエス

神によって造られた被造物で、大天使ミカエル。

ジャパニーズ・イエス・・・聖書ではなく日本書紀古事記ユダヤ教神道に基づき、原始福音キリストの幕屋(手島郁郎)が教えるイエス

宗教混合のエキュメニカル・ニューエイジ神。

 

・・・以下の聖書の警告に耳を傾けましょう。


Ⅱコリント11:4

というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。


Ⅱコリント11:13~15

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

 

ガラテヤ1:6~9

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

いろんなクリスチャン

「クリスチャン」と言ってもピンからキリまでいますが、あなたはどんなクリスチャン(になりたい)ですか?

 

真のクリスチャン:聖書に書いてある通りに信じ、日々神様に従おうと努めている

 

名ばかりクリスチャン:幼児洗礼などで、本人の信仰と関係なくキリスト教徒になってしまった

 

自称クリスチャン:(たとえ信じているとしても)正式な洗礼を受けていない

 

似非クリスチャン:聖書の言葉をほとんど信じていないくせに、ウソの洗礼を受けた(リベラル派、異端)

 

なんちゃってクリスチャン:そこそこ教会に通ったりはしているが、いいかげん、不真面目

 

たぶんクリスチャン:救いの確信がない

 

にわかクリスチャン:自分の意志で信じ、受洗したが、短期間であっさり信仰を捨てた

 

サンデークリスチャン:日曜日のひと時だけクリスチャンになり、他の日は世の人とほぼ同じ生き方をしている

 

クリスマスチャン:クリスマス(時期)のみ教会に現れる

 

クリスチャンもどき:趣味としてキリスト教や教会・聖書が好きなだけで、未洗礼

 

クリス赤チャン:信じた後、何の成長もしていない

 

<補足>

記事の主旨は、誰かを断罪することではなく、各人が自分の現在の信仰を見つめ直すこと。

・・・全ての人が「忠実な主のしもべ」へと変えられ、成長していくことを願います。

礼拝賛美において気を付けるべきこと

 

賛美曲の歌詞の意味を理解する

特に古い文語体の「讃美歌」「聖歌」などを歌う時、多くのクリスチャンが歌詞の意味をよく理解しないまま歌っているようです。

それらの曲の一部は現代訳されたりもしていますが、なお古い翻訳にこだわっている人もいます。

もとから現代語である「プレイズソング」「ワーシップソング」と呼ばれる賛美曲を用いれば問題ないですが、もし何かの理由で文語体の曲を歌おうとするならば、最低限、歌詞の内容を理解(説明)してからにすべきです。

形骸化した、”何となく”歌っているような賛美を神様は喜ばれないでしょう。

 

告白している歌詞を実践する

「 ♪~信じます」「♬~従います」「♩~宣べ伝えよ」・・・などの歌詞を歌いながら、普段の信仰生活において、まったくそうしているように見えない信徒がたくさんいるようです。

自分の口で歌っておきながら、その告白している歌詞は他人事のようで、これでは歌うたびに神様の前に嘘をついているようなものです。

 行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であることを肝に銘じる必要があります。

 

「賛美」の本質を理解する

 賛美とは、神様をほめたたえること(もの)なので、別に歌・音楽でなくても良いのです。しかしいつの間にか「賛美」≒「音楽」のように捉えられていて、神様をほめたたえることより、音楽を(自分のために)楽しむことがメインになっているケースがあるようです。

聖霊様の臨在はあってほしいですが、「自分(人間側)が満たされる」ことは、賛美の本質から考えると重要ではありません。賛美の結果として臨在があり、満たされることは良いですが、自分が満たされることが目的になっていないか、注意が必要です。音楽には十二分に快楽的要素がある点を忘れてはいけません。

 

ある牧師は、教会で(信者の)誕生日会があるたびごとに「~それでは、〇月生まれの〇〇さんのために『ハッピーバースデー トゥー ユー』を賛美しましょう」と言っていました。

私が2度ほど「ハッピーバースデー~」は賛美(曲)ではありませんよ」と諫めましたが、一度だけ改めただけで、その後も「ハッピーバースデー~を賛美」と言い続けました。

残念ながら、その牧師にとっては「賛美」とは神様をたたえることではなく、単に「歌を歌うこと」程度の意味しかなかったようです。

異教徒は地獄行き、と神は、ほんとうに言われたのですか?

最近よく聞かれるのが、「聖書に〇〇と本当に書いてありますか?」「イエスは本当にそう言われたのですか?」という言い回しです。

 

例えば、

聖書に「異教徒は地獄行き」と本当に書いてありますか?

聖書に「座禅を組んで瞑想してはいけない」と本当に書いてありますか?

聖書に「ヒューマニズムは罪」と本当に書いてありますか?

エスは本当に「同性愛は罪」などと言われたのですか?

 

この質問に共通する“狙い”は、罪や罰の否定であり、受容です。つまり、

「異教徒のままでも天国に入れる」

キリスト教に、座禅などの異教行事を取り入れても良い」

ヒューマニズムによる一致運動(エキュメニズム)は良い」

「同性愛を改めなくてもクリスチャンになれる」

と主張したいわけです。

 

創世記の蛇(サタン)にそっくりです。


創世記 3:1

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

これらの主張をする人々に、いくつかの聖句を上げてみせると、「『いきょうとはじごくいき』『どうせいあいはつみ』とは(そっくりそのまま)書いていない」とか「その時代の〇〇と現代の〇〇とは意味が違う。似ているだけ」というような屁理屈をつけてきます。

 

そもそも聖書に、いちいち時代・地域・文化等に合わせた用語を用いて、あれはダメこれは良いなどと個別には書いていません。

「おうむしんりきょうににゅうしんしてはいけない」

「えんじょこうさいはつみ」

「いんたーねっとで、あだるとどうがをみてはいけない」

 

・・・文字通りそう書いてなくても、聖書全体を読み、聖霊様によって神様のみこころを知っていれば、何が良いか悪いか、判別できるのです。

 

サタンとその従者の「誘惑」に騙されないようにしましょう。

 

カトリック信者ががいかに聖書とかけ離れたことを信じているか

一般的プロテスタント(広義の福音派)のクリスチャンが、日常、カトリック信者と出会い、会話をすることはそうそうないでしょう。

 

それで「カトリックも多少違うところがあっても、同じキリストを信じる兄弟」のように思い込んでいる人が多いようです。

 

そういう人は、是非「ヤフー知恵袋」のカトリック信者たちの質疑応答を、いくつか閲覧してみてください。

彼らがいかに聖書とかけ離れたことを信じているのか、とてもよく分かります。全くの不信者と同じ「曲解」を堂々と主張しています。

 

新生している福音派クリスチャンであれば、それらを見て「開いた口が塞がらない」状態に陥ることでしょう。

 

罪深く、可哀想です。 

 

・・・どうか、カトリック信者が心から罪を悔い改めて、“本物の”イエス・キリストを信じ、天国に行けるように、とりなし祈ってください。

聖書は一日何章読んだらいいか?

聖書は旧約が929章、新約が260章、合わせて1189章あります。

ということは、

一日1章ずつ読むと、1189日(3年3か月強)かかります。

以下、

一日2章ずつ読むと、595日(1年8か月弱)

一日3章ずつ読むと、397日(1年1か月強)

一日4章ずつ読むと、298日(10か月弱)

一日5章ずつ読むと、238日(8か月弱)

となります。

 

あまり長い期間をかけると全体像がつかみにくいですし、前に読んだことも忘れがちですので、1年に一回は通読したいです。

すると、一日に3章、時々4章読めば、なんとかイケます。

 

読むこと自体が目的にならないように気をつけましょう。

読んでも信じなければ(都合の良い箇所のみを信じるだけなら)、ほとんど意味はありません。

また、信じても従わなければ、それは死んだ信仰です。

「三位一体さえ信じていれば正統派」という嘘

多くのクリスチャン(牧師・信徒問わず)が、「三位一体を認めていれば正統的キリスト教であって、異端ではない」と思い込んでいます。

 

この考え方は、いつの間にか何者かに騙されているのです。聖書で「異端とは三位一体を否定する者である」とは定義されていません。

聖書的でないキリスト教徒たち(宗教家)が、勝手に定義したものを、福音主義のクリスチャンたちも、いつの間にか基準にしてしまっているのです。

 

三位一体を信じていても、他の主要な教えで聖書に反していれば、それは「異端」であり、偽りの福音です

 

聖書では、正しい教えに留まるように、間違った教えに惑わされないように、再三再四警告しています。特に、

第一コリントでは、<人につくこと、人間を誇ること、不品行・偶像礼拝、復活>

第二コリントでは、<にせ使徒による別のイエス、異なった霊、異なった福音>について。

ガラテヤ書では、<ほかの福音、ユダヤ教、行いによる救い、悪いパン種、肉を誇ること>について。

コロサイ書では、やはり<ユダヤ教、行いによる救い>について。

第二テサロニケでは、<背教、不法の人、サタンの働き>について。

第一テモテでは、<空想話・系図、惑わす霊・悪霊の教え、禁欲主義、霊知>

第二テモテでは、<健全な教えに留まること、復活の否定、終わりの時代の困難、悪人・詐欺師、空想話>について。

テトスでは、<反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者、系図、分派>について。

ヘブル書では、<堕落、信仰・訓練>について。

第二ペテロでは、<私的解釈・曲解、にせ預言者、にせ教師、作り事のことば、バラムの道>について。

第一ヨハネでは、<反キリスト、惑わそうとする人たち、悪魔のしわざ、にせ預言者、偽りの霊、命令を守ること、偶像>

第二ヨハネでは、<惑わす者、反キリスト>について。

ユダでは、<ひそかに忍び込んで来た者、カインの道、バラムの迷い、不敬虔な者>について。

黙示録では、<使徒と自称している者、ニコライ派、ユダヤ人と自称している者、サタンの王座、バラムの教え、イゼベル・預言者と自称している者、サタンの会衆、悔い改め、竜・獣・にせ預言者、大淫婦>について。

 

・・・これほど警告されているのに、悪い教えに対し無防備・無関心なクリスチャンが多すぎます。

特に、牧師がこの世や人間に迎合しているため、すでに悪い教えが次々教会に忍び込んでいます。

 

ローマ・カトリック教会、リベラル派、エキュメニカル派の非聖書的な悪い教えに気をつけてください。