聖霊の3つの別体験(新生、満たし、賜物)と教派による対応の違い

聖霊なる神様はお一人ですが、信者にもたらす働きには、大きく分けて3種類あります。

 

内住(新生)・・・救いのために必要。人生で一度の体験(棄教しない限り、失われることはなく、持続される)。

聖書に書いてあるとおりに、罪を悔い改め、キリストを主と信じた際に、その信じた人の心の中に聖霊なる神様が住まわれること。信者自身の霊(本質)が新しく生まれ変わること。救われた証拠(救いの確信をもたらす)。

 

ヨハネ3:3~5

エスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。

 

ローマ 8:9

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

 

Ⅰコリント12:3

ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません

 

Ⅱコリント1:22

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

 

エペソ1:13~14

この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 

ヨハネ 4:13

神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 

満たし(聖化)・・・神様への思いや臨在に特にあふれること。さらに、実際に聖く生きるため、成長して豊かな実を結ぶために必要。人生で何度もある(求め続けるべき)体験。

すでに新生したキリスト者が、罪や悪に負けないで神の御言葉を実践して生きて行くため、キリストの似姿に変えられて行くために、聖霊の力(助け)が与えられること。

 

使徒 1:8

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレムユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

ローマ8:4

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

 

Ⅱコリント3:18

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

 

ガラテヤ5:16~23

私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 

エペソ5:18

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。

 

特別な賜物・・・なくてはならない訳ではないが、あるに越したことはない。人生において一度の体験。

特別な能力が与えられること。

 

Ⅰコリント12:8~11

 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

 

「①新生(内住)」なくして「②満たし」「③特別な賜物」を受けることはありません。「新生」はすべての信者の基本です。

 

「①新生(内住)」と同時に「②満たし」を受けることは十分あります。

さらに「③特別な賜物」も同時に受けることはあります。

 

「②満たし」がないのに「③特別な賜物」を受けることはないでしょう(特別な賜物には、満たしが伴う)。しかし「満たし」を受けても「特別な賜物」を受けないことはあります。

 

「満たし」は一度きりのものではありません。常に求め続けることで、キープすべきものです。一度(一時)満たされたから、満たされ続けるというものではありません。

 

 

<教団教派による見解の違い>

A.狭義での「福音派」(きよめ派・聖霊派以外の福音派。改革派、ルター派、バプテスト系など)

①「新生(内住)」は認めています。

②「聖め」は「救い」と同義で、新生と同時に聖めも受け、完了したと考えています。

「満たし」がないので、御言葉を実践する力(あるいはその意志)がほとんどなく、”救われてよかったね”で終わってしまっています。

③「賜物」に関しては、以下の聖句の「完全なもの」を「聖書を指している」という解釈に基づき、「使徒の時代のみあったが、もう終わってしまい、現在はもう(賜物は)ない」と考えています。

Ⅰコリント 13:8~10

 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。

 

しかし、この聖句の「完全なもの」は聖書を指しているのではなく、「天国での神・キリスト様との出会い」を指しています。続く以下の聖句からそれが明らかです。

 

Ⅰコリント 13:12

 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

B.きよめ派(ホーリネス、インマヌエル、メソジスト系など)

①「新生(内住)」②「満たし(聖化)」の両方を認めています。

 

C.聖霊派(ペンテコステ派、カリスマ派、第三の波/途中から聖霊派に転向した個人及びグループ)

①「新生(内住)」②「満たし」③「賜物」の3種を認めています。

ただし、②は、感覚(神の臨在体験)的な面が強調され、聖く生きるという面はやや弱いです。

何より③を強調しています。

②と③をきちんと分けて理解している人は少ないと思われます。

 

 

ちなみに聖書の「聖霊バプテスマ」という言葉が何を指しているか?もまた教団教派によって見解が分かれるところですが、おそらく②「聖霊の満たし」のことを指していると思われます。

私自身は長く聖霊派にいましたので、「聖霊の賜物(とくに異言)」を「聖霊バプテスマ」と教わり、そう思ってきましたが、最近もう一度ピュアに聖書を研究してみた結果、「聖霊の満たし」を「聖霊バプテスマ」と呼ぶ(定義する)方が、理にかなっていると判断しました。

(ただし「聖霊バプテスマ」という言葉がどちらを指すかの論争は、不毛であり、あまり意味がないでしょう。)

 

狭義の福音派の大きな問題点は、「聖霊バプテスマ」を「聖霊の内住(新生)」と勘違いしていることです。「聖霊バプテスマ」は明らかに「聖霊の内住(新生)」とは別の体験です(「聖霊の満たし」を指すにしても「聖霊の賜物」を指すにしても)。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「満たし」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒4:8

そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。「民の指導者たち、ならびに長老の方々。

 

使徒4:31

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。

 

使徒6:3~5

そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、

 

使徒7:55

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、

 

使徒9:17

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」

 

使徒11:24

彼(=バルナバ)はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。

 

使徒13:9

しかし、サウロ、別名でパウロは、聖霊に満たされ、彼をにらみつけて、

 

使徒13:52

弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。

 

ローマ15:13

どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。

 

<すでに新生した信者が、それとは別に「賜物」を受けたことに言及する聖句>

使徒2:4

すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。

 

使徒8:14~18

さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。使徒たちが手を置くと御霊が与えられるのを見たシモンは、使徒たちのところに金を持って来て、

(*御霊が与えられるのを「見た」ことに注目。つまり目に見える現象があった。ここではおそらく「異言」の賜物)

 

Ⅰコリント12:31

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

 

Ⅰコリント14:1

愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

Ⅰコリント14:12

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるよう、熱心に求めなさい。

 

 

福音派は自分が知らない(体験していない)ことに関して、それを体験している「きよめ派」「聖霊派」から、謙遜な心で学ぶ必要があります。

分からないことは素直に「分かりません」というべきであり、「ない」「終わった」「彼らは間違っている(異端だ)」などと言ってはいけません。それは高慢の罪に他なりません。

一方、聖霊派の中には「霊的な現象」を聖書より優先し、きちんと判断せずに「霊的なことをなんでも受け入れる」悪い傾向を持っている人達がいるのも事実です。そういう人たちは、必要なことに関しては、福音派から学ぶ必要があるでしょう。吟味の欠如した「いい加減な聖霊派」では、福音派の人をつまずかせるだけです。