“牧師の都合に合わせた”教会形成&聖書解釈の間違い

プロテスタントでは、基本的に「聖書信仰(聖書はすべて原典において誤りなき不変の神の御言葉)」であり、聖書に忠実であるように心がけていますが、実際には、聖書よりもかなり「伝統」に従っています。

多くの場合「悪意」を持ってそうしている訳ではありませんが、「牧師の都合」に合わせた聖書解釈になってしまっているのです。

すべての牧師がそうという訳ではありませんが、大抵以下のような思い違いをしています。

 

「教会」

×牧師の都合解釈・・・主に、自分が牧会している「地域教会(いわゆる○○教団□□教会)」のこと。

◎聖書の本当の意味・・・キリストを心から信じているクリスチャン一人一人のこと。また地域や時間を超えた、その目に見えない「総体」を指す。
エペソ 1:23「 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」
Ⅰコリント 12:12~13 「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」
Ⅰコリント 12:27 「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。」

 

「礼拝」

×牧師の都合解釈・・・日曜の集会(プログラム)に出席すること。

◎聖書の本当の意味・・・自分を神様に捧げて(自己犠牲を払って)、御言葉に従って、神様と人を愛し日々生きること。
ヨハネ 4:24 「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
ローマ 12:1 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
マルコ 12:33 「また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 

「(救いに至る)信仰」

×牧師の都合解釈・・・一度キリストを心に受け入れること。過去に信仰告白(決心)をしていれば、救いを失うことはない。

◎聖書の本当の意味・・・継続的に神・キリストに信頼し、愛し続けること。最後まで耐え忍ぶ者が救われる。行いが伴う。
マタイ10:22 「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」
マタイ7:21~27 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
ヨハネ15:5~6 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」

Ⅰコリント 16:22 「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。」
ヘブル 6:4~6「 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。」
ヤコブ 2:14~26 「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、あなたがたのうちだれかが、その人たちに、『安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい』と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
 さらに、こう言う人もあるでしょう。『あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。』 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、『アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた』という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

黙示 14:12 「神の戒めを守り、イエスに対する信仰を持ち続ける聖徒たちの忍耐はここにある。」

 

「伝道」

×牧師の都合解釈・・・(イベントなどを通して)自分が牧会している地域教会に人を「勧誘」すること。地域教会を「宣伝」すること。あるいは、洗礼を受けさせること(人間的努力によって「救う」こと)。教会堂の中で「説教(信者向けの聖書の解説)」をすること。善行をすること。

◎聖書の本当の意味・・・キリストの救い(福音/その中心は主イエスによる贖罪と復活、それがもたらす罪の赦しと永遠の命・神の国)について、聞いたことがない全世界の全ての人に、言葉で伝える(教える)こと。
マタイ 4:17 「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』」
マルコ 16:15 「それから、イエスは彼らにこう言われた。『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」
ルカ 10:9 「そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国が、あなたがたに近づいた』と言いなさい。」

ルカ 24:46~48 「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」

使徒1:22 「すなわち、ヨハネバプテスマから始まって、私たちを離れて天に上げられた日までの間、いつも私たちと行動をともにした者の中から、だれかひとりが、私たちとともにイエスの復活の証人とならなければなりません。」
使徒 4:33 「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」
使徒 17:3 「そして、キリストは苦しみを受け、死者の中からよみがえらなければならないことを説明し、また論証して、『私があなたがたに伝えているこのイエスこそ、キリストなのです』と言った。」
使徒 17:17 「そこでパウロは、会堂ではユダヤ人や神を敬う人たちと論じ、広場では毎日そこに居合わせた人たちと論じた。」
使徒 20:21 「ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
ローマ15:19「~私はエルサレムから始めて、ずっと回ってイルリコに至るまで、キリストの福音をくまなく伝えました。このように、私は、他人の土台の上に建てないように、キリストの御名がまだ語られていない所に福音を宣べ伝えることを切に求めたのです。」
Ⅰコリント 15:1~5 「兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。」

 

「交わり」

×牧師の都合解釈・・・自分の所属教会に、ただ教会員が集まること。食事会など。ただの社交場。

◎聖書の本当の意味・・・神イエス・キリストが(話題の)中心となった信者同士の交流。
ヨハネ 1:3 「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

 

「証し」

×牧師の都合解釈・・・単なる人生の体験談。一日を振り返っての感想など。何か不思議な出来事に関するお話。

◎聖書の本当の意味・・・日々の信仰生活によって、神様の素晴らしさを現わすこと。その体験談。
マタイ5:13~16 「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

Ⅰコリント10:31 「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」
ピリピ2:16 「いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」

 

「成長(実を結ぶ)」

×牧師の都合解釈・・・自分が牧会している地域教会の出席人数が増えること。教会堂が大きくなること。この世で繁栄すること。

◎聖書の本当の意味・・・クリスチャン一人ひとりが、いかなる状況においても信仰生活が送れるように「自立」すること。聖霊の実(愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制)が見られるようになること。キリスト(のご性質)に似た者に変えられていくこと。
Ⅱコリント 3:18 「私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」
ガラテヤ 5:22~23 「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」
ピリピ 3:14 「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
ヘブル 6:1 「ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。」

 

「自己犠牲(愛の実践)」「従順」

×牧師の都合解釈・・・自分の所属している地域教会に対し、牧師の言うことをよく聞き、奉仕・献金をたくさんすること。

◎聖書の本当の意味・・・神様の御言葉に従って、自分の時間・財産等を用いて、日々人々に伝道し、弱者・困窮者を助けること。
使徒 5:29 「ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。『人に従うより、神に従うべきです。」

ルカ6:33~36「自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。
 ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。 あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」
ヤコブ 1:27 「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」

 

「求道者」

×牧師の都合解釈・・・ただ地域教会に来る人

◎聖書の本当の意味・・・道であるキリストを求める人
詩篇86:11 「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。」
イザヤ55:6 「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」
ヨハネ14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」
使徒17:27 「これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。」

 

「神に用いられる」

×牧師の都合解釈・・・何か目立った働きをすること。特別な役割を果たすこと。この世あるいはキリスト教業界内で有名になること。

◎聖書の本当の意味・・・(この表現自体、聖書中にはほぼ無いが)小さいことでも忠実に神様に従うこと。

 

*聖書を自分で読まないクリスチャンは、「牧師の都合解釈」が正しいと思い込んでしまっています。

*悪意を持たない牧師であっても、伝統に従って「牧師流解釈」をする理由は、聖書ではなく(聖書以前に、聖書以上に)ある種の「神学」を信じている点が原因と思われます。

おそらく、聖書(神の御言葉)を繰り返し読む前に、神学(聖書を元に人間がまとめた学問)を先に叩き込まれているゆえに、聖書を解釈する際、自分が勉強した「神学」というメガネを通して見てしまい、本当の解釈が見えてこないのでしょう。

(たとえば、エホバの証人が聖書を読むとき、「ものみの塔」「目ざめよ」等の組織が書いたテキストを通して解釈するのと同じ問題。)