「伝道」について間違った理解をしているクリスチャンが結構いますが、その理由は?
①クリスチャン一人ひとりが自分自身で聖書を読まないので、「伝道」とはどういう意味で、どうすることなのか分かっていない
②牧師が「伝道」について理解していないし、実践していないので、教会員に「伝道」について正しい指導ができていない
牧師を含めクリスチャンが、「伝道」に対してあまりにも無知あるいは無関心であるために、間違ったことがまかり通っています。
まず、「伝道」は教会(クリスチャン)の最重要使命です。神様は「伝道」はしません。それは信者に委ねられたことで、信者が果たさなければならない主からの「命令」です。神を愛する人はこの命令を守る責任があります。
伝道だけは、天国へ行った後で行うことは出来ません。祈りも賛美も天国へ行ってから、いくらでもできます。救われた信者が、(すぐに天国へ行かずに)この地上に残されている最大の理由は、福音を伝えるためです。
また、伝道は「人の(永遠の)いのち」がかかっています。一秒遅れたらアウトになる場合もあり「緊急事項」です。隣人を愛している、と言いながら伝道しない(他人の魂の救いに興味のない)人は、自分自身が救われていない可能性があります。救われていたとしても、「自分さえ天国に行ければ良い」と考えている冷たい人間です。
「キリストの福音」は例えるならば、死を待つしかない難病に対する「唯一の治療薬」です。自分がその治療薬を受けて癒されたのにも拘らず、同じ病気の人にその治療薬を(知っているのに)教えない人がいたら、相当自己中心で冷たい人間でしょう。
ただし伝道は、人に強制したり、強制されたりするものではありません。自分の信仰に応じて実践するものです。
聖書的「伝道」とは、
<A>「イエス・キリストの十字架(あがない)による、罪からの救いの知らせ」を
<B>「全ての人」に
<C>「伝える(教える・情報を提供する)」ことです。
<A>間違った例として、「教会の場所・集会内容を知らせる」「私はクリスチャンです、と証しする」・・・これだけでは「伝道」したとはいえません。また、「信じると病気が治る」とか「いいことがある」「仲間ができる」「あなたは愛されています」・・・これも的外れです。「イエス・キリストによる救い(いのち)」を伝えなければ伝道したことにはなりません。そのためには「罪の赦し」「死後の裁きからの救い」・・・つまり「罪」について「地獄」についても(語りたくなくても)語らなければなりません。ただ、「天国」とか「永遠の命」などの良いことだけ語るなら、かえって不親切です。
<B>それから、「親族・友人・近所の人だけ」に伝えてもだめです。文字どおり「全ての人」に伝えなければなりません(もちろん個人や一教会でできるようなものではありません)。同じ人に何回も伝道するのも“優先順位において”間違っています。福音を「聞いたことのない人に」伝えるのが先です。
<C>さらなる間違いは・・・よく、「言葉で伝えなくても親切な行い(無言の善行)をすれば、それが伝道です」と言われています。しかし、それは伝道ではありません。ただ単に「クリスチャンとしての当たり前の生き方」に過ぎません。「伝道」とは「(救いの道を)伝えること」です。口で言わなければ誰も分かりません(文書でも構いませんが)。そして、「伝える」ことが目的ですから、「伝えたら完了」なのです。多くの場合この点が問題(思い違い)となっています。「伝道」は人を「救う」ことではありません。もちろん救われることを願って行っているものですが、救うのは「神様の働き」であり、信じるのは「福音を聞いた人の自由選択」です。嫌がっている人を無理矢理「信じさせよう」として圧力をかけたり、しつこく勧誘するのはまちがいです。人間の努力や方策・熱心さで「救おう」とするのは、神様に対する「越権行為」です。救われて欲しいのはやまやまでしょうが、その気持ちは「祈り」に向けてください。
多少繰り返しになるかもしれませんが、「まず教会(堂)に連れてきて・・・」と考えないでください。「福音」は積極的に出て行って、聞いたことのない人に伝える必要があります。教会堂の中で、待っていてはいけません(その間に人はどんどん死んでいきます)。同様に、「(いきなり伝えるより)まず人間関係を築いてから」というのも違います。人間関係があれば話しやすいだけであって、救われやすくなる訳ではありませんし(もしそうであるならば、家族はもっとも救われるはずですが、現実にはそうではありません)、伝道するために無駄な時間・労力を費やすことになります(何年もかけて築いた人間関係・友人関係が、福音を語ったとたん切れることはよくあるケースです)。
それから、「伝道は教職者だけがすれば良い」というものではありません。捧げる時間や財力・頻度などは人それぞれ(信仰に応じて)ですが、全ての信徒がすべきことです(少なくともその心がけがないといけません)。
一人で全部語れなくても構いません(と言うか、普通そこまではできないでしょう)。ただ伝えるべき要点を忘れないようにしましょう。文書で構いません。そういう意味では、“きちんと福音が書かれた”トラクトを一枚渡せば「伝道完了」です。読まなくても(あるいは受け取りさえ拒否されても)、神様の前に伝道の責任は果たしたことになります(嫌がっている人に、内容を知らせることは不可能ですから)。
また、知恵を用いる必要はありますが、何かの規則によって「伝道禁止」されているからと言って、素直に「はい分かりました、やりません」では(神の前に)困ります。「人(の規則)に従うより神(の命令)に従うべきです」。厳しいようですが、このみことばが受け入れられないなら、神の国にふさわしくはありません。
「伝道(宣教)」は神の最重要(優先)命令であるのもかかわらず、教会(牧師・クリスチャン)はあまりにもこの働きに消極的です。「伝道」以外のことなら(神様から)言われていないことまで積極的にしますが、「伝道」に関してはどうしてもやりたくないようです。何故かと言うと、伝道は「犠牲(自分が損すること)」が大きいからです。もちろん天においての報いは大きいのですが、この地上においては損することのほうが多いでしょう。聖書どおりの伝道をしようとすれば、時間もお金もかかります。もし、結果として人が救われず、教会に人が集まらなければ、この世では、労力を浪費するだけの“報われない仕事”になります。また、行きたくないところ、伝えたくない人にも行わなければなりませんし、その人が救われない限り、通常喜んでもらえるものでもありません。むしろ「伝道」したために、親子兄弟・友人関係が破綻したり、猛烈な迫害を受けたり、嘲笑われたり、仲間はずれにされたり、(時にはクリスチャンと言っている人たちにさえ)変な目で見られたりします。
そんな目に会うのは嫌だから・・・伝道しないで、「伝道もどき」か「さほど重要でない、それ以外のこと」に没頭したりします。特に日本人は「人を恐れ」「周りの人と同じことをやっていれば大丈夫」と考えているので余計に伝道しません。しかし、どちらにしても、神は生前の行いを正しく裁かれるのです。主イエス様に会った時に「良くやった。忠実なしもべだ」と言われるか、「悪い怠け者のしもべだ」と言われるか・・・、自分次第です。
あと、地域教会(教団)でよく「開拓伝道(教会開拓)」なる言葉が使われ、行われますが、ほとんどの場合間違ったやり方がでなされています。
聖書的開拓伝道は「初めに伝道ありき」です。つまり福音を聞いたことがない人、伝えたことがない地域に対して、福音を伝え、その結果信じる人々が起こされていく中で、群れ(教会)が形成されていくのです。
しかし、伝統的になされているパターンは「初めに教会堂ありき」「初めに礼拝プログラム(定期集会)ありき」です。つまり、人々に福音を伝える前に、まだ信じる人がいなくても、どこかの地域で(牧師夫妻なりが)定期集会場所を備えて開始されます。中にはほとんど「伝道」をしないで、場所を構え牧師夫妻が定期集会をしているだけで「開拓伝道しています」と言います。
さらにこの伝統的パターンでは、開拓伝道を始める場所が、(表面的には「神様に示された」と言いますが)自分の願望に基づいています。分かりやすく言うと、福音が(あまり)伝わっていない地域・教会が存在しない地域は、地方や山奥の方など日本中にたくさんありますが、伝統的「教会開拓」は、そこには行きません。なぜならそんな田舎でやっても、教会が大きくならない(人数が増えない)可能性が大きいので、(損な役回りは)やりたくないからです。
一方、既にいくつもの(他教団の)地域教会がある都心部で、「教会開拓」を始めたがります。「たくさん人がいるところならば、たくさん教会も必要だ」と言い訳されますが、優先順位から考えれば、絶対的に不足している地方でやるべきです。しかし「大きな教会の有名な牧師」になりたがる人が多いので、信者が増える可能性が大きいある程度人口が多いところでやりたがるのです。
結局のところ、伝統的「教会開拓」は、○○教会というコミュニティーを形成する(地域教会を増やす)ことが目的で、人の魂の救いは二の次なのです(その証拠に、牧師が満足するある程度の人数の教会員が与えられると、伝道をほぼしなくなります)。