救われていなかった哀れなマザー・テレサ

マザーテレサ 来て、わたしの光になりなさい!」(マザー・テレサ著)を読んだ感想です。


この本を読むと、カトリック信者が、いかに聖書からかけ離れたことを信じているか、よく分かります。


罪や救いの定義自体が「聖書」とは違うようで、神様から離れているという「背きの罪」の指摘や「悔い改め」、「十字架の福音(罪の贖い)」は説かれません。


テレサに、マリアや聖人崇拝(死者に祈ること)の罪も見受けられます。

 

テレサが信じていたのは、聖書のイエス様ではなく、カトリック教会或いは自分の想像上の別人(同名異人)イエス、という感じで、その別人イエスをテレサが一生懸命「救おうとしている」ように感じます。

 

そのために、ローマ・カトリック教会の教義・伝統に従って、自らを鞭打ち、あえて苦しみを甘受し、力の限り清貧に生きたというのがテレサの生涯でした。


これでは、聖霊が心に住んでくれるはずもなく、彼女自身が「神不在」に悩んでいたのは、当然の結果と言えるでしょう。

 

彼女が苦しみの中を耐え抜いたのは、神様の助けによるものではなく、単に、強靭な精神力を持っていたためのようです。

 

彼女は、ローマ・カトリック教会による犠牲者の一人と言えるでしょう。

もしテレサが、カトリックの教義・伝統(人間の戒め)を捨てて、聖書(神の御言葉)を信じて生きていれば、罪からの救いの確信を得、神様の愛に包まれ、喜びと希望と平安の中で生き、天国へ凱旋していたかと思うと、可哀想でしょうがありません。

 

以下、日本で出版される前にAFP通信に記載された記事を引用します。

 

マザー・テレサ、神の存在への疑念を手紙に記す
2007年8月27日 7:42 発信地:ニューヨーク/米国 [ 北米 米国 ] 

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【8月27日 AFP】カトリック教会の「聖人」に限りなく近いとされるマザー・テレサ(Mother Teresa)がしたためた私的な手紙が、近日出版される書籍の文中で公表される。この中でマザー・テレサは、自身の信仰の危機、および神の存在への疑念に悩まされていたことが明らかになった。

 数ある手紙の中の一通は、1979年に親友のMichael Van Der Peet牧師にあてたもので、文中には、「あなたはイエスの愛を受けている。わたしはといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」と書かれている。

 66年の間に書かれた40通以上の手紙にはマザー・テレサが破棄するよう求めたものも含まれており、これらは来週発売される書籍「Mother Teresa: Come Be My Light」で公表される。一部抜粋は、すでに米タイム誌(Time Magazine)が掲載している。

 インドのコルカタ(Kolkata)で貧困層のために人生をささげたマザー・テレサは手紙の中で、自身を襲う「闇」や「孤独」、「苦しみ」について記し、神にあてたとされる日付のない手紙では、「わたしの信仰はどこへ消えたのか。心の奥底には何もなく、むなしさと闇しか見あたらない。神よ、このえたいの知れない痛みがどれだけつらいことか」と問いかけている。

 「貧民街の聖女」としても知られるマザー・テレサは、若年期にはイエス・キリストの啓示を受けていたとされるが、公の場での表情に反し、新たに明らかになった手紙の内容からは、彼女が亡くなるまでの50年以上を、神の存在を確信できないまま過ごしていたことがわかる。また、ある手紙には「ほほえみは仮面」と書いたこともあり、さらに1959年に書いた手紙には、「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない」と記されている。(c)AFP .

 

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不誠実で無責任な日本のキリスト教会(特に牧師)

これは私が実際、見聞きした情報・体験をもとに書いています。

 

<宣教団体の期待>

時々、色んな宣教団体が、聖書やトラクトなどの小冊子(伝道文書)を無料あるいは格安で、地域教会に提供してくれることがあります。

 

それは、宣教団体ではたくさんの伝道文書を印刷したりして用意できますが、自分たちだけでは(日本中に)配り切れないため、日本の各地の地域教会に配布の協力を願ってそうするのです。

 

<”無料だから”喜んで貰う地域教会>

宣教団体が用意する伝道文書は、もちろん印刷や製本などにお金がかかっています。

そのため本来は、配布意志のある地域教会(あるいは個々人のクリスチャン)がそれらの伝道文書を「自ら買って」配布するのです。

 

しかし、伝道は時に反発や迫害をされることもあるので、教会の最大の使命でありながら、あまり積極的に取り組まれません。

そして金銭面でも、大抵の地域教会で信徒が捧げる献金は「牧師給」と「会堂(維持)費」にたくさん使われるため、伝道費にまわらず、伝道文書を購入することが出来ない場合が多いのです。

 

それで、宣教団体が無料あるいは格安で、伝道文書を提供してくれるとなると、「無料(格安)ならたくさん貰って(買って)おこう」と思って、地域教会の方も喜んで申し込みます。

 

<貰うだけ貰って、実際にはほとんど配布しない地域教会>

「タダ(格安)だから」と大量に貰っておきながら、「貰った当初に少し配るだけ」または「教会に来た数少ない求道者に渡すだけ」で、残りはほとんど配布しないまま、何年間も教会に置いておくだけということが、実は多いのです。

 

私が知っている地域教会だけでも、そういう教会が多いのですから、全国的に見れば、相当数の伝道文書が”配布されないまま”無駄に眠っていると予想できます。

しかも信仰熱心なはずの聖霊派でも、それは同じです。

 

<知らずに喜んでいる宣教団体>

宣教団体としては、たくさん申し込みがあったので、”当然”配布してくれているものだと思って「○○万部の文書が日本中で配布されています!」と喜んでいます。

しかし実際は、ほとんど配られていないのです。

 

<時が経つと捨てる地域教会>

配られない伝道文書は、段ボールの中に入ったまま「邪魔なもの」として、やがて教会の倉庫などに仕舞われてしまいます。

そして何年か経つと”信じがたいことに”「これは内容が古いから」或いは単に「誰も配らず邪魔だから」と、捨てようとするのです。

 

私はそのような情報を聞いて、捨てられそうになっていた伝道文書(聖書を含む)をたくさん引き取って、自分一人で、あるいは有志と一緒に配布したことがあります。

 

<神様への愛も、人への愛もない教会>

マルコ16:15

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。

 

ヨハネ14:23~24

イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなのです。

 

ローマ 10:13~14

「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
 
マルコ16:16

信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。

 

<怠け者でも天国に入れると思い込んでいるクリスチャン>

多くのクリスチャンは、自分が死んだ後、天国でイエス様が両手を広げて喜んで迎えてくれると思い込んでいます。

 

しかし聖書は何と言っているでしょう?

マタイ25:30

役に立たぬしもべは、外の暗やみに追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。

 

ルカ12:47

主人の心を知りながら、その思いどおりに用意もせず、働きもしなかったしもべは、ひどくむち打たれます。

 

 

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踏み絵は偶像だから、しても良いのか?(絵踏みしないことは偶像礼拝の罪なのか?)

「踏み絵は偶像にすぎないから、踏んでも良い」「絵踏みしないことは、偶像礼拝に当たるので、むしろ踏まない方が罪だ(つまり、踏むべき)」と言う人が、「キリスト信者」を自称する人の中にもいます。

 

しかし、踏み絵の論点は「信仰告白(あなたはキリストを信じているのか?)」であって、偶像云々ではありません。

絵踏みは、人々が「キリスト信者か否か?」を聞き出す(キリスト信者を発見する)ことを目的としており、「板(絵、像)を踏めるかどうか?」ではなく「あなたは、キリストの御名を踏みにじることができるか?」と問うているのです。

 

マタイ10:33

しかし、人の前でわたし(=主イエス・キリスト)を知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。

 

ですから、もし「”偶像だから”私は容赦なく踏みます」と考えている人がいたら、その人は同時に「私はキリストを信じています」とはっきり告白すべきです。「キリスト教徒は拷問にかけて殺す!」と言う権力者の前で。

(そもそも初めからキリスト信者であることを告白していれば、絵踏みなどやらされることはないのです。もちろん迫害や拷問などの目に遭います。)

 

その告白もせずに、黙って踏み絵を(偶像だから)踏むならば、その人は偶像礼拝論にすり替えて、実はキリストのゆえに迫害されることを恐れていただけなのです。

 

「心の中ではキリストを信じていたから(形だけ、絵踏みをしても)大丈夫」とは思わないでください。

 

人の心は、言葉(口)に表れ、態度にも表れます。

口にも出さず、行いにも表れない「心の中だけの信仰」は、死んだ信仰です。

 

ローマ10:9~10

なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

ルカ6:45

良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。


ヤコブ2:19~26

あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。

 

信仰は見えないようで、実は(その人の言動を通して)傍から見えるものなのです。

マリア崇拝に扇動するためのキリスト映画、クリスチャン・ベールの「ジーザス」

 


この映画は酷いです。

ジーザス」とタイトルがついていますが、始めから終わりまで、主役はマリアです。

(*原題は「Mary, Mother of Jesus(マリア、イエスの母)」)


以下、この映画の中で、余りにも聖書からかけ離れた点を挙げておきます。


①マリアが12歳のイエスに「良きサマリヤ人」の話を教えている(この時点でイエスは自分が神の御子である自覚がない)。


②マリアがイエスに、バプテスマのヨハネに会って洗礼を受けるように勧める。


③マリアがイエスに続いて、バプテスマのヨハネから洗礼を受ける。


④洗礼後も迷うイエスがマリアに導きを聞く。


⑤マリアがバラバに愛を説教する。


⑥マリアが空っぽの墓に行き、そこで復活したイエスに出会う(イエスはマリアにだけ現れる)。


⑦その後マリアが弟子たちのリーダーになる。

 

そしてエンディングでは、マリアの賛歌(ルカ1:46~)とともに複数の絵画を使って、マリアに焦点を当てています。


パッケージの裏側に「~再び降臨するまでを描く・・・」とストーリーが紹介されていたので、キリストの再臨のことだと思い、期待してDVDを買って観たのですが、「再び降臨」とは「復活」のことでした・・・(しかも30秒程度)。


こんなマリア崇拝的な内容だと分かっていれば、買いませんでした。

(ちなみに、売っていたのは、いのちのことば社の書店です。)

 

 

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真のクリスチャンは、この世では有名になることはない

昨年2024年、自民党石破茂氏が内閣総理大臣になりました。

 

時々「歌手の〇〇はクリスチャンだよ」「政治家の〇〇は敬虔なクリスチャン」「歴史上の〇〇は、実は洗礼を受けている」・・・という声を聞きます。

 

しかし、その人物についてよく調べてみると、とてもクリスチャンとは思えない言動をしていることが多いです。

石破茂氏も、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」のメンバーですし、2025年新年には伊勢神宮を参拝しました。)

 

結論から言うと、真のクリスチャンは、基本的に「この世」からは干されるので、有名になることはありません。

名ばかりクリスチャンやカトリック信者、一般的な宗教学者ならば、ある程度大丈夫ですが、真面目な(真実に聖書に従う)人ほど「有名人」にはなれないのです。

 

(例外として、昔、サッカーのビスマルクという名選手がいましたが、勝利者インタビューでいつも「イエス様」を口にするので、そのうち誰からもインタビューされなくなったそうです。

また他に、作家の三浦綾子さんなども有名ですが、メディアからは警戒されていたそうです。)


その理由は、キリストご自身が言われたとおり、クリスチャンは「この世」のものではないからです。

 

ヨハネ 15:18~19

もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたし(=キリスト)を先に憎んだことを知っておきなさい。
 もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。

 

「この世」は悪魔サタンの支配下にあり、この世の機関(テレビ、大手新聞社…)の多くが「悪魔の側」についています。

 

この世の偽りの教え(=聖書の神はいない、天国も地獄もない、罪などなく自分の好きなように生きれば良い、進化論etc.)で人々を欺いていたい悪魔(とそれに同調する人)にとっては、それを暴いてしまう真のクリスチャンは邪魔者です。

それで、真のクリスチャンをなるべく日の当たらない所へと、追いやろうとします。


2007年にアメリカの団体が、キリスト教の信仰書「パワー・フォー・リビング」というものを、申し込む日本人全てに無料プレゼントするために、有名なクリスチャン(日本ハム監督ヒルマン、歌手m-floバーバル、久保田早紀ほか)を起用して、テレビ・新聞・広告などで大々的に宣伝しました。

しかし使用できる言葉は規制されていました。

「キリスト」などもっての外、「聖書」も当然ダメ、「神」は回数が制限され、たしか「教会」という言葉すら使えなかったと記憶しています・・・。

結果、一般人には“素性のわからない怪しい団体”として、敬遠されてしまいました。

 

www.youtube.com


日本にはそれでも、「信教の自由」が憲法で約束されているので、普通に伝道(布教)することはできます。


共産主義で国民を支配している「中国」「北朝鮮」などでは、クリスチャンである(になる)だけで、刑務所行きです(国が認めている教会もありますが、やはり使う言葉などが規制・監視されています)。


逆に、多くの被害者が出ているのに、「占い」とか「霊能者」などのオカルト類は、テレビでも一般紙でも広く認められていますね。


・・・これは、空想話ではなく、真理(現実)なのです。

 

有名と言われるクリスチャンの言動には、気をつけてください。聖書に反している場合が多いので、その行いを真似しないように。

信仰を殺すキリスト教映画。ハリウッドは聖書をどのように貶めるのか?(YouTubeより)

もうご覧になった方もいると思いますが、見せかけはキリスト教の映画でありながら、神様を冒涜するものや、信仰を惑わす作品がいくつもあります。

 

害悪と分かっているものをわざわざ観る必要はないですが、どこが聖書的でないか、検証するために(我慢して)観てみるのもいいかもしれません。

(参考までに、私は「沈黙」と「ノア 約束の舟」は、検証のために観てみました。・・・聖なる怒りがわいてきました。)

 

<ワースト5>

第1位:「沈黙ーサイレンス」(2017年)

監督/マーティン・スコセッシ、主演/アンドリュー・ガーフィールド

 

第2位:「ジーザス・クライスト スーパースター」(1973年)

監督/ノーマン・ジュイソン 、主演/テッド・ニーリー

 

第3位:「最後の誘惑」(1988年)

監督/マーティン・スコセッシ、主演/ウィレム・デフォー

 

第4位:「ノア 約束の舟」(2014年)

監督/ダーレン・アロノフスキー、主演/ラッセル・クロウ

 

第5位:「エクソダス 神と王」(2014年)

監督/リドリー・スコット、主演/クリスチャン・ベール

 

各映画の書評は、以下の動画をご覧ください。

www.youtube.com

モルモン・イエスに気をつけよう! モルモン教(末日聖徒イエス・キリスト教会)によるキリスト映画

イエス・キリストの生涯を描いた映画は、世界中にたくさんありますが、(10年くらい前?)YouTube大々的に宣伝された「The Life of Jesus Crist (Messiah of Nazareth)」という映画は、モルモン教によって製作されたものなので、ご注意ください。

モルモン教の映画(自動翻訳したもの)

 

基本的にどんなキリストの映画でも多少の脚色は含まれていますが、この映画では特に、「サマリアの女とイエスの対話のシーン」において、「神は霊である」(ヨハネ4:24)というセリフが省かれています。

これはモルモン教の教義において、「父なる神が霊」であっては困るためと思われます(モルモン教では「神はもともと人間で、私たち人類も神になれる」と説いています)。

 

その他は「欽定訳聖書」を使い、聖書から大きく外れた点はないようですが、モルモン教がこのような映画を作ったことは、「信者獲得のための入口」であることに留意してください。

 

モルモン教は正式名称「末日聖徒イエス・キリスト教会」と名乗っており、知らない人は正式名称の方だけ聞くと、一般的なキリスト教会だと勘違いしてしまいます。

 

つまり、映画も教会名も、そして「聖書」も彼らの組織への勧誘の手口(道具)に過ぎません。

 

上記しましたが、モルモン教の教義は、聖書とは真逆と言ってもいいほど「全く違う」内容です。

以下に要点だけ挙げておきます。

①聖書よりも、「モルモン書」「教義と聖約」「高価なる真珠」という彼らの教典の方が権威が上。

②父・子・聖霊はそれぞれ別の神々であり、宇宙には女神(妻)を含めたくさんの神々がいる。

③父なる神は霊ではなく、人間と同じ骨肉の体を持っており、もともと人間だった。

④善悪の知識の木の実を、アダムとエバが取って食べた(神に背いた)ことは、良い結果を生んだ。

⑤キリストは、神になったアダムと人間マリアが性交渉によって生まれた子。

⑥キリストは、マルタ及びふたりのマリアと結婚し、子どもを設けた。

⑦人は、モルモン教の教義・儀式に従うことで救われ、神になれる。

⑧死後にも救いのチャンスがある。

⑨生きている人が、死んだ先祖の身代わりに洗礼を受ければ、何代先の先祖でも救うことが出来る。

⑩地獄の裁きは永遠ではない。

 

以下の動画「ザ・ゴッドメイカーズ」は、以前「日本ミッション(セーブ 新日本視聴覚伝道)」という団体でも「モルモン教 この驚くべき事実!!」というタイトルでビデオ販売されていました。

YouTubeのこの動画は英語版ですが、自動翻訳機能を使って不自然なく日本語字幕で観れます。

 

www.youtube.com