死の間際の信仰告白で救われるか?

人は、死の間際にキリストを信じれば、天国に行けるのでしょうか?

 

口先だけの信仰告白は、本物の信仰ではないので・・・。

 

少なくとも、
①心から、
②意味(神様とはどういうお方か?罪とは何か?キリストとはどういうお方か?信仰とは何か?・・・等)をきちんと理解した上で、
③神様に対する背きの罪を悔い改めて、聖書に書いてある通りのイエス・キリストを信頼しなければなりません。

 

そうすれば、天国に行くことは可能ですが、
人はある日突然死んだり、死ななくても正常に考えることが出来ない障害や苦痛に見舞われたりします。
その場合、上記のような「本物の信仰」を持つことは不可能・或いは困難です

 

また長い間、福音を拒み続けていると、神様はその人に信じる機会をもう与えない(つまり、死ぬ前にすでに裁きが決まっている)こともあります

 

ヨハネ3:18
御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

 

Ⅱテサロニケ2:9~12
不法の人の到来は、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力、しるし、不思議がそれに伴い、また、滅びる人たちに対するあらゆる悪の欺きが行われます。なぜなら、彼らは救われるために真理への愛を受け入れなかったからです。
それゆえ神は、彼らが偽りを信じるように、惑わす力を送り込まれます。それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。

 

出エジプト9:12

しかし、主はパロの心をかたくなにされ、彼はふたりの言うことを聞き入れなかった。主がモーセに言われたとおりである。

 

ヘブル12:16~17

また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。

 

以上を踏まえると、死ぬ前に(ちゃっかり)「信仰告白をして天国へ行こう」という作戦は、うまくいく可能性が極めて低い、ということになります。

 

Ⅱコリント5:20~6:2

こういうわけで、私たち(≒クリスチャン)はキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方(=キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です

 

福音を聞いた(知った)時が、「恵みの時、救いの日」です。

信じることを後回しにしたり、拒否し続けて、チャンスが無駄になることのないようにしてください。

 

イザヤ 55:6~7

主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

 

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旧約聖書の神のあわれみ深さを示す聖句

一般に「旧約聖書の神は怖く、新約聖書の神(イエス・キリスト)は優しい」と言われますが、実際はどうでしょう。

旧約聖書の神様の優しさを表す聖句を上げておきたいと思います。

 

旧約聖書の神様の優しさを表す聖句>
出エジプト22:22~23

すべてのやもめ、またはみなしごを悩ませてはならない。もしあなたが彼らをひどく悩ませ、彼らがわたしに向かって切に叫ぶなら、わたしは必ず彼らの叫びを聞き入れる。


出エジプト23:4~5

あなたの敵の牛とか、ろばで、迷っているのに出会った場合、必ずそれを彼のところに返さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、荷物の下敷きになっているのを見た場合、それを起こしてやりたくなくても、必ず彼といっしょに起こしてやらなければならない。


出エジプト23:11

七年目には、その土地をそのままにしておき、休ませなければならない。民の貧しい人々に、食べさせ、その残りを野の獣に食べさせなければならない。ぶどう畑も、オリーブ畑も、同様にしなければならない。

 

レビ19:9~10

あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。

 

レビ19:13

あなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。

 

レビ19:14

あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない。あなたの神を恐れなさい。わたしは主である。


レビ19:32

あなたは白髪の老人の前では起立し、老人を敬い、またあなたの神を恐れなければならない。わたしは主である。

 

レビ19:33~34

もしあなたがたの国に、あなたといっしょに在留異国人がいるなら、彼をしいたげてはならない。あなたがたといっしょの在留異国人は、あなたがたにとって、あなたがたの国で生まれたひとりのようにしなければならない。あなたは彼をあなた自身のように愛しなさい。あなたがたもかつてエジプトの地では在留異国人だったからである。わたしはあなたがたの神、主である。


申命記1:31

また、荒野では、あなたがたがこの所に来るまでの、全道中、人がその子を抱くように、あなたの神、主が、あなたを抱かれたのを見ているのだ。


申命記14:28~29

三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。あなたのうちにあって相続地の割り当てのないレビ人や、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人や、みなしごや、やもめは来て、食べ、満ち足りるであろう。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。


申命記15:7~11

あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。
 あなたは心に邪念をいだき、「第七年、免除の年が近づいた」と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。
 必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」


申命記20:5~7

つかさたちは、民に告げて言いなさい。「新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。
 ぶどう畑を作って、そこからまだ収穫していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が収穫するといけないから。
 女と婚約して、まだその女と結婚していない者はいないか。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者が彼女と結婚するといけないから。」


申命記22:1~4

あなたの同族の者の牛または羊が迷っているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。あなたの同族の者のところへそれを必ず連れ戻さなければならない。
 もし同族の者が近くの者でなく、あなたはその人を知らないなら、それを自分の家に連れて来て、同族の者が捜している間、あなたのところに置いて、それを彼に返しなさい。 彼のろばについても同じようにしなければならない。彼の着物についても同じようにしなければならない。すべてあなたの同族の者がなくしたものを、あなたが見つけたなら、同じようにしなければならない。知らぬふりをしていることはできない。
 あなたの同族の者のろば、または牛が道で倒れているのを見て、知らぬふりをしていてはならない。必ず、その者を助けて、それを起こさなければならない。


申命記22:6~7

たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。


申命記23:15~16

主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。


申命記24:5

 人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務をも負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。


申命記24:6

ひき臼、あるいは、その上石を質に取ってはならない。いのちそのものを質に取ることになるからである。


申命記24:10~13

隣人に何かを貸すときに、担保を取るため、その家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。


申命記24:14~15

貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。


申命記24:17

在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。やもめの着物を質に取ってはならない。


申命記24:19~21

あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。ぶどう畑のぶどうを収穫するときは、後になってまたそれを摘み取ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。

 

エレミヤ22:3

主はこう仰せられる。公義と正義を行い、かすめられている者を、しいたげる者の手から救い出せ。在留異国人、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。また罪のない者の血をこの所に流してはならない。

北朝鮮・イスラム教の国などに生まれて、キリスト教に改宗するのが困難な人達に対する救いについて

使徒17:24~28

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である』と言ったとおりです。

 

被造物を観察するなどして「創造主と、罪からの救いを真剣に探し求めていること」がまず第一歩です。

その人には、例えば、
①密かに潜入している宣教師(キリスト教徒)と出会わせてくれる
②聖書(あるいは福音文書)を入手出来るようにしてくれる
③国外へ脱出チャンスを与え、①②のようにしてくれる
イエス・キリストが(パウロに現れたように)幻で現れてくれる
など。

その上で、罪を悔い改めて、福音を信じ通すならば、救われます。

神様はなぜ、困っている人を助けようとしないのか?

誠の神様は、ある範囲までは、誰にでも助けを与えています(そもそも、神様の助けなしに生きている人間はいない)。

 

マタイ5:45b
天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。

 


しかしそれ以上の範囲は、まず背きの罪を悔い改めて、罪からの贖い主イエス・キリストを信じて誠の神様と和解しなければなりません。

 

イザヤ 59:1~13
見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。
実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。彼らはまむしの卵をかえし、くもの巣を織る。その卵を食べる者は死に、卵をつぶすと、毒蛇がとび出す。そのくもの巣は着物にはならず、自分の作ったもので身をおおうこともできない。彼らのわざは不義のわざ、彼らの手のなすことは、ただ暴虐。彼らの足は悪に走り、罪のない者の血を流すのに速い。彼らの思いは不義の思い。破壊と破滅が彼らの大路にある。彼らは平和の道を知らず、その道筋には公義がない。彼らは自分の通り道を曲げ、そこを歩む者はだれも、平和を知らない。
それゆえ、公義は私たちから遠ざかり、義は私たちに追いつかない。私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。私たちは盲人のように壁を手さぐりし、目のない者のように手さぐりする。真昼でも、たそがれ時のようにつまずき、やみの中にいる死人のようだ。私たちはみな、熊のようにほえ、鳩のようにうめきにうめく。公義を待ち望むが、それはなく、救いを待ち望むが、それは私たちから遠く離れている。
それは、私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し、私たちの罪が、私たちに不利な証言をするからです。私たちのそむきの罪は、私たちとともにあり、私たちは自分の咎を知っている。私たちは、そむいて、主を否み、私たちの神に従うことをやめ、しいたげと反逆を語り、心に偽りのことばを抱いて、つぶやいている。

 

Ⅱコリント 5:19~21
すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。
神は、罪を知らない方(=キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

 


そして、拠り頼みつづければ、折にかなった助けをいただけます。

 

マタイ 7:7~11
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。

 

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「神は乗り越えられる試練しか与えない」のか?

水泳の池江璃花子選手が、ご自身の白血病との闘いにおいて「神様は乗り越えられない試練は与えない」という発言をし、その言葉がひとり歩きし、意味も分からず使っている人が多いようです。

池江選手がどこからこの言葉を見つけてきたのかは知りませんが、多くの人が「この言葉は嘘だ、そんなことはない」と反論しています。

 

聖書をよく読んでいるクリスチャンであれば皆、この言葉が以下の聖句から来ているのではないか、と推測します。


新約聖書 コリント人への手紙 第一 10章13節
あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。

 

この御言葉は、「あなたがた=(新生した、真の)クリスチャン」に約束されている言葉なので、キリストを信じていない人や、形だけのクリスチャン、この御言葉の約束を信じないクリスチャンには、残念ながら適用されません

 

真のクリスチャンは皆、信仰の試練(訓練)に会いますが、神様及びこの聖句を信じ続けている限り、必ず脱出の道を備えてくれます。

 


旧約聖書 詩篇119篇71節

苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。

 

どうぞ、苦しみ・試練にあっている未信者の方は、これを機にキリストを信じて、神様の永遠の祝福の中に入ってください。

 

 

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カトリックでは死者に供え物をしたり、仏壇に手を合わせることは良いこと、とされている

以下、「カトリック教会の諸宗教対話の手引き(カトリック中央協議会)」P60~61より引用。

 

Q24【仏壇のお供え】仏壇に果物・お茶・お酒など故人が好んでいたものを供えてもよいでしょうか。
A 故人に対する尊敬と愛情の表現として、これらを供えてもよいでしょう。故人との交わりを深めるために毎日供えることも差し支えありません。カトリックの教えでは、祈り、愛のわざが死者のためにささげられます。

 

Q25【仏壇の前で】家族の中でわたしだけがカトリック信者ですが、仏壇の前に手を合わせ、鈴を鳴らし、ご飯を供え、祈りなどをしてもよいでしょうか。
A たとえ先祖のかたが洗礼を受けていなくても、善意のうちに世を去ったすべての先祖のために祈り、その保護を求めることは、その家族の一員として尊い務めです。仏壇に手を合わせるとき、たとえば「主よ、○○○○さんに永遠のやすらぎを与えてください」と心の中で祈ります。そして、鈴を鳴らし、ご飯を供えるのは、先祖に対する愛情と尊敬の表現として行われるのですから、その気持ちで、これらのことを行うようにしましょう。

 

・・・もちろん、聖書的には罪です。

 

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クリスチャンが冥福を祈ったり、焼香をしても良いのか?

カトリック教会では、神の御言葉・聖書に反し、ヒューマニズムに基いて以下のような「嘘(罪)」を教えています。

カトリック教会の諸宗教対話の手引き 実践Q&A」67ページ 
Q30【ほかの宗教の葬儀などへの参列】
カトリック信者は、ほかの宗教の葬儀・命日・法事などに参列してもよいでしょうか。

A カトリック教会で葬式がある場合、ほかの宗教の人々も心をこめて参列することをわたしたちは知っております。同様に、カトリック信者もほかの宗教の葬式・命日・法事にあずかり、単に礼儀作法としてだけではなく、故人の冥福を祈ることは、キリスト教的な愛のわざです。
焼香・献花などは、特定の宗教の儀式というよりは、どの宗教にも共通する儀式ですから差し支えありません。カトリック信者は、そのとき、たとえば「主よ、○○○○さんに永遠のやすらぎを与えてください」と心の中で祈りましょう。



「冥福を祈る」の意味。https://www.heart-denpo.com/manual-qa/manual/heavenly-bliss.php
「死者が冥土や冥界でさまようことなく、無事に転生できるように」との願いを込めて使われます。

「焼香」の意味。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%BC%E9%A6%99
焼香(しょうこう)とは、仏教において、香を焚くこと。特に、仏や死者に対して香を焚いて拝むこと。



聖書では、死者に話しかけたり、供え物をしたり、拝む異教行事は禁じられています。

申命記18:11
呪文を唱える者、霊媒をする者、口寄せ、死人に伺いを立てる者があってはならない。

申命記26:14
私は喪のときに、それを食べず、また汚れているときに、そのいくらかをも取り出しませんでした。またそのいくらかでも死人に供えたこともありません。私は、私の神、主の御声に聞き従い、すべてあなたが私に命じられたとおりにいたしました。

詩篇106:28~29
彼らはまた、バアル・ペオルにつき従い、死者へのいけにえを食べた。こうして、その行いによって御怒りを引き起こし、彼らの間に神罰が下った。

また死者のために(救いを)祈っても意味がありません。


Ⅱサムエル12:22~23

ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、主が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。あの子をもう一度、呼び戻せるであろうか。私はあの子のところに行くだろうが、あの子は私のところに戻っては来ない。」

 

以下、神の戒めではなく、人間の言い伝えを守っているカトリック教会・信者に対する警告。


マルコ7:6~9
エスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。