一度信じても、救いを失うことはある

聖書を普通に読めば「一度信じても、救いを失うことはある」と書かれています。

 

信仰というのは、そもそも「一度信じた」とか「過去に信じた(受け入れた)」というものではなく、「継続されるべき」ものですから、自ら途中で信仰をやめたら、救いも当然失われます。

 

他にもいくつもありますが、以下の聖句がもっとも明確に書かれている箇所です。

ヘブル6:4~6
 一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。

ヘブル10:26~39
 もし私たちが、真理の知識を受けて後、ことさらに罪を犯し続けるならば、罪のためのいけにえは、もはや残されていません。ただ、さばきと、逆らう人たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れながら待つよりほかはないのです。
だれでもモーセの律法を無視する者は、二、三の証人のことばに基づいて、あわれみを受けることなく死刑に処せられます。まして、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れたものとみなし、恵みの御霊を侮る者は、どんなに重い処罰に値するか、考えてみなさい。
私たちは、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」、また、「主がその民をさばかれる」と言われる方を知っています。生ける神の手の中に陥ることは恐ろしいことです。
あなたがたは、光に照らされて後、苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。人々の目の前で、そしりと苦しみとを受けた者もあれば、このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

ところが、「信仰義認」という教理(神学)ばかりに固執する人たちは、「一度信じた者を神様が捨てるはずはないし、救いが取り消されることはない」「もし、信じたはずの人が天国に入れなかったら、それは最初から(実は)信じ救われていなかったのだ」と解釈します。

 

しかしこの解釈には、「(神様の方から人間を捨てることはないが)人間の方から神様を捨てることがある」という側面を無視しています。

 

そしてこの解釈で行くと「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」ということになり、「実によって、本物と偽物の信者を見分けなさい」という聖書の教えが無意味になってしまいます。

 

教会の中で「牧師先生」とか「〇〇姉妹」「△△兄弟」と親しく交わっている人たちも、「実は救われていない未信者」かもしれない、ということになります。

 

確かに「初めから救われていない(実は)未信者」がクリスチャン・兄弟姉妹と呼ばれている場合もあるでしょう。

しかし、すべての信者が「誰が本当に救われているかは、神様しか分からない」(信者か未信者か見分けのつかない)“謎信者?!”ではないはずです。

初めは熱心に信じていたのに、途中でそれをやめる信者が居るのです。

 

エス様も黙示録2:4~5で、エペソ教会の信者にこう言っています。

 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

 

また、人間の罪の性質(深さ)の面から考えた時、「一旦救われたら救いを失うことがない」と思っていると、信仰的に停滞・後退する可能性が高く、不信仰(不従順)な信者を生み出す結果となります(現実そうなっているように見えます)。

 

ちなみに、上記のへブル書の聖句を「単なる警告にすぎない」と捉えているようですが、旧約聖書の「祝福と呪い」の警告が、実際にバビロン捕囚等で実現していることを考えると、このへブル書の聖句を「単なる警告」と取るのは無理があります。

 

この神学が支持される他の理由として、牧師は「信者を安心させたい」「信者が好むような(易しい)ことを言いたい」傾向があるから、とも言えます。


もっと詳しい解説は、以下のリンク先、モリエル・ジャパンの「救われたら滅びないのか」をクリックすると.pdfで読むことができます。

moriel.jp