教会に行く必要はあるか?洗礼を受ける必要はあるか?

洗礼(水のバプテスマ)について
①聖書の中で「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。(マルコ16:16)」と書かれているので、特殊な事情(病気やふさわしい教会が近くにない等)がない限り、洗礼は受けるべきです。

②特殊な事情で洗礼を受けていない場合でも、心から悔い改めてキリストを信じていれば、天国には入れます。以下の聖書箇所が根拠です。
ルカ 23:39~43
十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

③洗礼を受けていない場合の弊害は、社会的に(この世的に、公に)「クリスチャン」として認められないことです。つまり世間一般では「自称クリスチャン」という扱いになってしまいます。


 地域教会に行くか行かないか、について
①「地域教会に行きなさい、所属しなさい」という教えは聖書にありませんので、そこに加わらなくても、特に問題はありません。

②しかし、神様を礼拝しないことは罪です。また兄弟姉妹(クリスチャン仲間)との交わりは信仰生活上必要なものです。一人で信仰生活を送ることはできません。

③ここで注意すべきは、「神様を礼拝する」というのは、「地域教会の日曜礼拝というプログラムに出席すること」ではなく、日々自分自身を神様に捧げて生きる(つまり御言葉に従って生きる)ことです。
また「信徒同士の交わり」というのは、「地域教会に所属・参加すること・顔を合わせること」ではなく、信者同士が(場所を問わず、何らかの形で)神様のことをテーマとして交流することです。

「礼拝」に関する聖句は以下。
ヨハネ 4:21 -24(リビングバイブル)
「いいですか。 父なる神を礼拝する場所は、この山か、それともエルサレムか、などとこだわる必要のない時が来るのです。 大切なのは、どこで礼拝するかではありません。 どのように礼拝するかです。 霊的な、真心からの礼拝をしているかどうかが問題なのです。 神は霊なるお方だから、正しい礼拝をするには、聖霊の助けが必要です。 神はそのような礼拝をしてほしいのですよ。 あなたがたサマリヤ人は、神のことはほとんど何も知らないで礼拝していますが、私たちユダヤ人はよく知っています。 救いはユダヤ人を通してこの世に来るのですから。」

ローマ 12:1(新改訳)
そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

「交わり」に関する聖句は以下。
ヨハネ1:3
私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

ヘブル 10:24~25
また、互いに勧め合って、愛と善行を促すように注意し合おうではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。

ガラテヤ 6:10
ですから、私たちは、機会のあるたびに、すべての人に対して、特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。

コロサイ3:16
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。


「教会」とは
①国境や時代を超え、たった一つの目に見えないクリスチャン共同体・・・聖書に書いてあるとおりのキリストを信じ「新生」した一人一人(=真のクリスチャン)およびその集まり。キリストがその頭(かしら)で、信者一人ひとりがその体の各パーツとして構成されている。
②現実のこの世にある、目に見える「地域教会」・・・いわゆる「〇〇教団△△教会」。
③①の「キリストのみからだ」と②の「地域教会」の最も大きな相違は、①は完全であり②は不完全であること。②の中には間違った教えや実は信じていない(救われていない)教会員(牧師)が含まれていること。多くの場合①と②をごっちゃにしているので、いろいろな問題が起こってくる。
④聖書で教えているのは、「地域教会に行きなさい・来なさい」ではなく、「キリストのみからだである真の教会の一部となって生きなさい」ということ。
⑤要するに目に見える「地域教会」とは、聖書の言葉を実践する(=信者が信仰生活を送る)にあたって、要点をしぼり、より簡潔したひとつの形。目に見えない真の教会である「キリストのみからだ」を具現化した(いろいろな)形の内のひとつ。

「教会」についての聖句
エペソ 4:15~16
むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

Ⅰコリント 12:12
ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。


「結論(実際にどうするのが良いか)」
本来聖書では、洗礼を授けることができるのは「地域教会の牧師限定」ではありません。神様から召命を受け、神様に「献身」しているクリスチャンならば、洗礼を授ける権利はあると思われます。
しかし、そのようなクリスチャンが勝手にそう主張(自称)して、洗礼を授け出すと、秩序というものがなくなり、キリスト教全体の腐敗や堕落につながる可能性があるので、混乱を避けるために「地域教会の牧師(副牧師・伝道師)のみ洗礼を授ける権威がある」としているようです。
というわけで、洗礼を受けるためには、一時期は地域教会につながる必要はあるでしょう。しかし、上記したように、目に見える「地域教会」では聖書に反した教えや人が含まれている場合があるので、「(完全ではないけれど)良さそうな教会だったら通い続け、悪い教会であると気づいたら(受洗後)離れる」のが良いと思われます。

悪い教会から離れた場合、自分自身で何らかの形で礼拝(神様の御言葉を実践:聖書を読み、祈り、賛美し、伝道し、弱者を助ける等)し、どこかでクリスチャン同士の交流の時を持たなければなりません(*実際にこのように自主的に行動するのは大変なので、悪い教会と分かっていても”簡易信仰システムで”ある地域教会・牧師に依存する信者が多いです)。