聖書を理解するのに、指導者や導く組織は必要でしょうか?

<聖書を理解するのに、指導者や導く組織は必要でしょうか?>

特別な人物や組織がないと、信者は自分で聖書を知ることは出来ないのでしょうか?

 

ローマ・カトリック教会ローマ法王バチカン)、ものみの塔(統治体)、モルモン教会(ジョセフ・スミス)、統一協会文鮮明)がその権威を主張し、プロテスタン各地域教会でも、時に「牧師」によらなければ聖書は難解で理解できない、と言われることもあります。

 

しかし聖書は、全ての信者がその本質(神への「信仰」や「愛」など)について、誰からも教わらなくても分かる、と証言しています。

その理由は、キリストの贖いが完成した「新約」の時代は、信者全員に「聖霊なる神」が内住されるからです。

旧約時代は、この恵みがなく、聖霊はごく一部の信仰者(アブラハムモーセダビデ、預言者など)にしか注がれていなかったので、民を導く指導者が必要でした。しかし現代は違います。特別な指導者・組織は必要ではありません。


ヨハネ 2:20~21

 あなたがたには聖なる方からのそそぎの油があるので、だれでも知識を持っています。このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。


ヨハネ2:27

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。


エレミヤ 31:33~34

 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──主の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『主を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──主の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

 

ただし、以下の聖句にあるように、各々が自分勝手な解釈をして良いという訳ではありません。


Ⅱペテロ1:20

 それには何よりも次のことを知っていなければいけません。すなわち、聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。


Ⅱペテロ3:16

 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。

 

聖書を理解する際に重要なのは、聖書全体が何を語っているか、ということを押さえることです。そうでないと、一部の聖句だけ拾って、聖書全体や前後の文脈を無視した突拍子もない解釈が出来てしまいます。

 

実例)マタイ 4:5~7

 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

エスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」

 

(悪魔が引用した聖句)詩篇 91:11~12

 まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる。彼らは、その手で、あなたをささえ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにする。
(イエスが引用した聖句)申命記 6:16

 あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない。

 

細かい解釈に関しては勉強する必要があるでしょう。

コロサイ3:16

 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め・・・

 

学ぶ際にも、「“互いに”教え」とあるので、特定の人物(組織)を通してだけではなく、それぞれが教え学び合うことが出来るのです。

細かい解釈においても、一般の信徒の方に、牧師や教師よりも深い理解(より聖書的な解釈)が与えられることはあります。

 

<なぜ信者は指導者を欲しがるのでしょうか?>

それは、「自分で考える」ということを放棄しているからです。「自分で考え、自分で決断し、自ら進んで実行する」というのは、それなりの労力が必要です。群衆はそれが面倒なので、自分の果たすべき責任を回避し、“要点だけを簡潔に教えてくれる”指導者に依存しようとします。

 

自分で「聖書を読む」のは大変なので、聖書の要点を解説してくれる(であろう)牧師の「説教を聞く」ことで済まそうとします。

実際のところ多くの場合、礼拝タイムの牧師の説教は、聖書を(自分の都合に合わせて)チョロっと引用するだけで、後はこの世の話をしたり、肯定思考・成功哲学を唱えたり・・・など聖書と関係ない(或はかけ離れた)話をします。

しかし、責任を放棄した群衆は、それが聖書の教えだと勘違いします。それで「神様に従うこと=指導者に従うこと」といつの間にか思い込むのです。

 

指導者や権威の存在すべてを否定する必要はありません。しかし、神様はそれほど多大な権力を、特定の組織や人物に与えていません。

初めに語ったように、今は旧約の時代ではないのです。すべての(新生した)信者は同じ兄弟姉妹(の立場)なのです。