本当に天国へ行けますか? 救いの確信、聖霊の内住について

聖霊の内住」は文字通り「聖霊様が信者の心の中に住む」ことです。それは新生(ボーン・アゲイン)の証拠、救いの確証でもあります。


“聖書に書いてあるとおりに”、罪を悔い改めてキリストを唯一の救い主として、“明確に”信じた者に瞬時に与えられます。水の洗礼などの儀式を通してではありません。
(地域教会で行われている「水の洗礼」は、新生した人だけが受ける権利があります。)

以下、御言葉から、

エレミヤ31:33~34
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。

ヨハネ 3:3~8
エスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
エスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

ヨハネ14:17
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

ヨハネ 14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

ローマ5:5
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ローマ8:9~16
けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。
ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

Ⅰコリント2:12~16
ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

Ⅰコリント12:1~3
さて、兄弟たち。御霊の賜物についてですが、私はあなたがたに、ぜひ次のことを知っていていただきたいのです。ご承知のように、あなたがたが異教徒であったときには、どう導かれたとしても、引かれて行った所は、ものを言わない偶像の所でした。ですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

Ⅱコリント 3:18
「 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

Ⅱコリント4:13
「私は信じた。それゆえに語った」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。

Ⅱコリント 5:5
私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

ガラテヤ3:2
ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

エペソ 1:13~14
この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

ヨハネ2:27
あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。

ヨハネ4:13
神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 

 

ただし、人間の方が実際に(体験的に)それに気づくのは、若干時間差があります。その理由は、初めての体験なので何を持って聖霊が内住していると言えるのか分からないからです。

個人的な意見かもしれませんが、以下の体験を持って聖霊の内住(救い)を確認できると思います(どれか一つではなく、すべて。とくに①②)。
①神様を愛する想いが与えられている(聖書が全て神の御言葉であると分かる、聖書を読みたい、神様に祈りたい、賛美したい、とくに聖書の教えに従いたい・・・)
②キリストの福音を伝えずにはいられない
③困っている人や苦しんでいる人を助けたいという思いが(信じる前より明らかに)強くなっている
④心からの平安
⑤救いの喜び
⑥死後、天国へ行ける確信

行ってはいけないカルト教会の特徴

近年、通常のキリスト教会がカルト化傾向にあります。聖書を知らない人ほど惑わされてしまいますので、教会に行く前に自分でまず聖書を読むことをおすすめします。

 

聖書は信仰を持って「神様が自分(読者)に語りかけてくれている」と思って読むならば、神様自身が導きを与えて下さり、「聖書の本質(神の愛や信仰、罪、救い…等)」に関しては、誰からも教わらなくても分かるようになっています。

「牧師に教わらないと分からない」「信徒では理解できない」とは思わないでください。

 

また「大きい教会(たくさんの人が集う教会)ほど安心」というのは、間違いです。実際は、大きい教会ほど聖書から離れている傾向があります(カトリック教会やプロテスタント内リベラル派・エキュメニカル派)。

聖書の教えよりも人々(罪びと)が好むような「世的な教え」をした方が、じつは人はたくさん集まるものです。

 

以下に、カルト教会、あるいはカルト化傾向にある教会の特徴を挙げておきます。該当する項目が多いほど危険と判断してください。

 

<教えに関して>

①聖書以外のテキストを頻繁に使う

②有名な(大きな教会の)海外の牧師・説教者・リバイバリストなどの教えをそのまま信奉する(やたら「○○先生がおっしゃっている」などと言って、聖書よりも有名説教者に従わせようとする)

③聖書を均等に学ばずに、同じ箇所ばかり強調する

④セカンドチャンス(死後にも救いの可能性がある、という非聖書的教え)を認める

⑤チョー・ヨンギ(自己実現成功哲学・肯定思考)、リック・ウォレン(キリスト教イスラム教を混合させた教え、エキュメニズムマーケティングによる教会形成)、ベニー・ヒン(拝金主義、偽預言者)、ピーター・ワグナー(自称「使徒」・権威主義)、リック・ジョイナー(偽預言)、シンディ・ジェイコブス(偽預言)、ビル・ジョンソン(自称「使徒」、ニューエイジ思想、繁栄の神学)が好き

⑥解釈が曖昧な(明確にされていない)聖句に対し、「この聖書箇所は、実はこういう意味です」と説明して、新種の教えを作り出す

 

<牧師の態度>
①牧師の権威が強い(「神様に従うことは、牧師に従うこと」とそれらしい事を言って、隷属させようとする。牧師に従わないと「神に反逆している、悪魔にやられている、地獄に落ちる」などと脅す。)

②信徒と比較して「牧師の方が常に正しい、優れている」或いは「牧師は神によって立てられたのだから、牧師が間違いや悪いことをするはずがない」と主張する

③「裁いてはいけません、赦しましょう」と言って、牧師の間違いを指摘することを封じる

④「弟子訓練」と言って、キリストの弟子ではなく、牧師に従順な信徒作りをしている

⑤ほかの教会・集会に参加したり、自分の教会(堂)以外のところで信徒同士が合う事を嫌う(牧師・指導者による信徒管理・支配体制)

⑥やたら大声で説教するなど、威圧的な口調

 

<教会の方向性、信者の雰囲気>

①初めのうちは牧師・教会員みんなで大歓迎する(ラブ・シャワー攻撃:その教会に依存する性質を持たせるため)

②「教会成長」「ビジョン(まぼろし)」「勝利(勝ち取る)」「打ち破り」「示された」「祝福」「権威」「霊的」「戦う」「油注ぎ」「変革」「解放」という言葉を好む
③「セル・グループ」という名の信徒管理システム(特に、セルで牧師の教え以外を語ってはいけない、という場合)の導入
④病気になったりすると「信仰が足りない」と責める、病院に行かせず信仰(祈り)で直せ、と勧める

⑤牧師の前や信者の前で、罪の具体的な悔い改め告白をさせ、恥をかかせてその人の精神を追い込む

⑥否定的な言葉を一切言ってはいけない、いつも肯定的な言葉だけ告白しなさいと言う(「信仰の言葉(ワード・フェイス)」と呼ばれる、この世の肯定思考・自己実現主義)

⑦聖書よりも「病の癒し」「奇跡」「不思議な現象」「個人的体験談(霊的直感)」「流行の教え」に心を注いでいる

⑧断食や長時間の祈りなど、自分の信仰深さ(熱心さ)を自慢げにしている

⑨自分の教会こそ、優れた教会だと思っている

⑩牧師のご機嫌を取る、取り巻き連中(イエスマン)がいて、「牧師先生に従いましょう」「牧師先生に聞きましょう」などと、牧師依存体質を作り出す

ユダヤ教旧約聖書)の祭りなどを実際に行う

⑫やたらと禁止事項が多い(情報統制)

⑬何かと「悪魔・悪霊の仕業」と結論づける

⑭自らの高揚感や興奮を求めている

⑮終末の危機感をあおる


献金や奉仕>
①十分の一献金の強要、集会参加の義務化

②教会に献金をたくさんすると、捧げた人は(特に経済的に)祝福されるので、できるかぎり多く献金するように強く勧める(「繁栄の神学」というご利益信仰)

③たくさん献金をしている信徒をチヤホヤする
④教会内の奉仕をたくさんさせる(疲れさせて、正常な判断力を鈍らせる)

⑤教会会計(献金の使われ方)の報告をあまりしなかったり、内訳が大雑把だったりする

 

*直接その教会に「安全な教会ですか」などと聞いても、みな「うちは正統派で安全です」というに決まっていますので、ネットなどで悪い噂がないかどうか、かならず確認してください。

*ちなみに、「地域教会に所属していなければ救われない」という教えは聖書にありません。聖書に書いてあるとおりのキリストを信じることによって、人は(目には見えない本当の意味での)教会の一部となるのです。

キリスト教 宗派・教派・教団の違いと分類

最近キリスト教に興味を持つ方が、少しずつですが増えているように感じます。

 

キリスト者として嬉しいことですが、反面、一口に「キリスト教」と言っても、あまりにも差異があるので、困ってしまいます。

 

初めに、聖書の救い(罪の赦し、永遠の命)を約束(保証)しているのは、目に見える教会組織(人間)ではなく、聖書(神の御言葉)自身であることを、はっきりとお伝えしたいと思います。

聖書に書いてある通りの神様を信じて生きることが重要なのであって、組織に所属することは重要ではありません。

 

<宗派の違い>

「宗派」とは、教典が違うものを指します。大きく分けて3つあります。

A.オーソドクス(東方教会):ハリストス正教会ギリシア正教ロシア正教など)

聖書だけでなく、正教会が認定した「聖伝(伝承)」を教典とする。神秘主義が強い。絶対的権力者はいないが階級はある。儀式が中心。イコンと呼ばれる「聖画像」が象徴的。

 

B.ローマ・カトリック教会西方教会

経典は、カトリック教会が認定した「聖伝(伝承)」が最終権威で、聖書(外典を含む)は部分的にのみ使用。時代とともに教えも変わる。バチカンローマ法王に絶対的な権力があり、統一されたピラミッド型の組織になっている。儀式が中心。イエス像、マリア像、聖人像が象徴的。

 

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C.プロテスタント(堕落した西方教会に抗議して枝分かれ)

プロテスタント」というまとまった組織はなく、以下の3点(福音主義)を基準にしたキリスト信仰の個教会や個人を指します。

①「経典は聖書のみ」:聖書(66巻)のみを「原典において、誤りなき不変の神の御言葉」と認める=聖書信仰

②「救いは神の恵みと人の信仰のみ」:神の恵みに対し、人間が信仰によって応えることで救われる。人間の行いや儀式によって救われるのではない(ただし、救われた結果としての行いは必要)。

③「万人祭司」:全ての信者は神様の前に、基本的に対等な兄弟姉妹であり、キリストを通して直接神様と交わることができる。神様と人との仲介者は、主イエス・キリストのみ(ただし仲介者としてではない牧師・教師などの役割を否定するものではない)。

 

 

<教派・教団の違い>

「教派」と言うのはプロテスタント内で使われますが、経典は一緒なので、違いは強調点だけです。

大まかな分類として、「(狭義の)福音派」「きよめ派」「聖霊派」があり、その下に具体的な教団の分類があります。

「リベラル派」「エキュメニカル派」という派閥もありますが、それらは聖書信仰ではないので、本来はプロテスタントとは言えません。

また「聖公会英国国教会)」も、分類上は一応プロテスタントですが、カトリックに近い部分が多く、上記した「福音主義(聖書信仰)」ではありません。

(*「きよめ派」「聖霊派」は「“広義”の福音派」になります。つまり「リベラル派」「エキュメニカル派」を除く、正統的プロテスタントはみな「広義の福音派」です。)

 

 

基本的に信仰は個人的なものなので、教派教団によって完全な線引きは出来ません。どこどこの教団だから、絶対に安心、絶対にダメというものはありません。同じ教団内でも、違うタイプの信仰を持っている教会・個人もあります。

非聖書的なグループに属しながら正しい信仰を持つことは難しいですが、重要なのは自分自身が堅く「聖書信仰・福音主義」に立つことです。

信仰の違うグループでも、教団・教会名がかなり似ている場合もありますので、ご注意ください。

以下、「クリスチャン情報ブック2010(いのちのことば社)」を元に、見聞きした情報を加えて、教派の特徴をまとめてみました。教団名は、特に推薦する目的で書いている訳ではありませんので、「参考」に留めて下さい。

 

①リベラル派・・・聖書を単なる神話・教養・文化・ブランドとして利用している異端信仰。文字通りの天地創造、処女降誕、復活、奇跡などは信じない。

日本基督教団や日本バプテスト連盟など。

 

エキュメニカル派・・・聖書の重要な教理である「キリストの唯一の救い」を否定し、世の中に迎合したヒューマニズムによる「宗教一致運動」を目指す異端信仰。

日本聖公会日本福音ルーテル教会、日本バプテスト同盟、在日大韓基督教会、日本自由メソヂスト教団、国際基督教団、日本ナザレン教団、日本キリスト改革派教会東京ユニオンチャーチ、日本キリスト教会(近年堕落して福音派から転向した模様)、キリスト友会日本年会(クエーカー。これまで聖霊派に分類していましたが、NCCに準加盟していることが分かりました)など。

 

福音派(狭義)・・・聖書信仰。心の中の信仰・知識を重んじる。行いは重要視されない。大人しい。静か。やや暗い。

日本福音キリスト教会連合(JECA)、日本同盟基督教団聖書キリスト教会聖書教会連盟日本バプテスト教会連合保守バプテスト同盟、福音バプテスト連合、福音バプテスト宣教団、日本バプテスト・バイブル・フェローシップ日本聖契キリスト教団日本聖約キリスト教団、正統長老教会日本ミッション、世界福音伝道団、日本伝道福音教団、勝利教会グループ、新生キリスト教会連合、スウェーデン同盟キリスト教団、日本使徒キリスト教会、日本福音自由教会協議会、福音交友会、ルーテル福音キリスト教会、リーベンゼラ日本宣教団、センド国際宣教団、ハーベスト・タイム・ミニストリーズなど。

 

④きよめ派・・・聖書信仰。信者としての成長(聖化)、行いの大切さも説く。やや堅い。牧師の権力強め(ブラザレン系兄弟団など一部を除く)。

イムマヌエル綜合伝道団(*近年、一部に堕落傾向がみられる)、救世軍、日本ホーリネス教団、ウェスレアン・ホーリネス教団、基督兄弟団、日本キリスト兄弟団、日本キリスト宣教団、基督聖協団、キリスト伝道隊、基督伝道隊、日本伝道隊、日本フリーメソジスト教団、東京フリー・メソジスト教団、日本長老教会、日本福音教会連合、日本福音教団、聖イエス会、復活之キリスト教団、聖書宣教教会、聖成基督教団、福音伝道教団、コイノニア福音グループ、活水基督教団、シオンキリスト教団、チャーチ・オブ・ゴッド、日本メノナイト・ブレザレン教団、東京地区メノナイト教会連合、東京中央教会、東洋宣教団きよめキリスト教会日本アライアンス教団、日本イエス・キリスト教団、日本神の教会連盟、日本宣教会など。

 

聖霊派(カリスマ派、ペンテコステ派)・・・聖書信仰。聖霊の力・賜物を強調している。明るく、喜びに満ち、最も行動力がある。牧師の権力志向が強く、何でも積極的なため流行の教えを安易に受け入れてしまい、カルト化しやすい。

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団、イエス・キリスト福音の群、日本ヴィンヤード・クリスチャン・フェローシップ、日本フォースクエア福音教団、日本フルゴスペル教団、活けるキリスト一麦教会など。

 

以上は信仰面での分類ですが、教会組織運営上(教会制度)の分類として、主に監督制、長老制、会衆制、ブラザレン(ブレザレン)系があります。後者ほど、役職による上下関係が弱く(権威の差がなく)、信者がみな対等の立場になります。

また儀式の違いとして、バプテスト系は「水の洗礼=浸礼(全身を水につける)」にこだわっています。 

 

(追記 2019.1.20)

いのちのことば社「クリスチャン情報ブック」のデータが、無料一般公開されるようになりました。

教会検索などに役立ちます。ただし、異端やカルト(化)教会なども含まれているので、ご注意ください。

教会・キリスト教関係の最新データ約12,000件掲載|クリスチャン情報ブックWEB

 

 

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「十分の一献金」の間違いについて

現代のほとんどのプロテスタント教会で、(半ば強制に近い形で)推奨される「十分の一献金」は、本当に聖書的な教えでしょうか?

 

皆さんご存知のように、聖書には「旧約」と「新約」があります。旧約の教えの中で、新約においても引き継がれている教えはあります。しかし、終わった教えもあります。それは新約聖書に一度も出てこない教えであったり、イスラエル民族に対する教えであったりします。

 

さて、「什一(収入の十分の一)献金」という教えは、旧約聖書には何箇所か出てきますが、新約聖書で引き継がれているでしょうか?

 

新約聖書で「什一献金」が勧められている箇所は、おそらく次の聖句だけでしょう。

 


マタイ23:23

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。


ルカ11:42

 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。

 

 

この二つは「並行記事」で基本的に同じことを語っています。たしかにここでは、イエス様ご自身が「十分の一」の献げものの大切さを説いています。

 

 

ところで話を戻しますが、「旧約」と「新約」を分ける際に、それは「旧約聖書に書かれていること」と「新約聖書に書かれていること」を意味しない場合があります。

 

厳密には「旧約時代(古い契約に基づいて生きる時代)」とは、キリストの十字架による贖いが完成する前の時期、であり、「新約時代(新しい契約に基づいて生きる時代)」とは、キリストの十字架による贖いが完成した後の時期を指しています。

 

「キリスト十字架」以降に、什一献金の教えはありません。前述した教え(マタイ23:23、ルカ11:42)は、旧約時代(キリスト十字架前)の守るべき教えとして、イエス様がイスラエル民族に対して言った言葉です。

 

同じケースが以下の聖書箇所でしょう。

 

マタイ 8:2~4

すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

 

マルコ 1:40~44

 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」


ルカ 17:12~14

 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。

 

 

「キリスト十字架」以降、献金に対する教えは、以下のものです。

 

Ⅱコリント9:7

 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 

 

多くの牧師が不勉強によってこのことを理解していないか、知っていても献金が減ると自分の生活が危うくなるために、「什一献金」を重要な教えとして、信徒に半ば強制しています。

 

ちなみに、献金は所属教会(或いは礼拝出席教会)に献げなければいけない、という教えも聖書にはありません。

まぁ、お世話になっていたらそこに献げるのは筋でしょうが、そうしなければならない訳ではありません。

 

そもそも献金は神様への感謝で、神様に献げられるべきものです。所属地域教会が、献金を無益なものに使っているならば、そのような教会に献げる必要はありません。

むしろ、忠実な宣教団体に直接献げた方が、神様は喜ばれるでしょう。

「イエス・キリストによる救いの知らせ(福音)」 未信者・求道者向けの要点

イエス・キリストの福音「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」>

 

全ての人は死んだ後、神(創造主)から罰を受けます(火の池に投げ込まれ、そこで永遠に苦しみます)。なぜなら、人間に命を与え、日々恵み(太陽の光・熱、水、食物、酸素、あらゆる資源)を与えて下さっている真の神に対して、感謝もせず、背を向けて(無視して)生きているからです。

「神なんてどうでもいい。それよりも自分の生活の方が大事。」と考え、間違った価値観で自分勝手な人生を送っています。それで、その人生に「本当の愛」や「生きる喜び・希望」「心からの平安」・・・がありません。それどころか、全く罪の中を歩んでいます。

心の中は他人に対するねたみや憎しみに満ち、悪口が大好きで、嘘をついてもへっちゃら。自分さえよければそれでいい。また、殺人(中絶)、姦淫(結婚外での性交渉)、同性愛、暴力、盗み、欲張り、親不孝、幼児虐待・・・偶像礼拝、死人崇拝、占い、まじないなどのオカルト(悪魔・悪霊との交流)行為。

多くの人は「でも、自分はあの人ほどは罪を犯していない。」とか「少しは良いこともしている。」と考え、「(少なくとも)地獄に落ちることはない」と勝手に思い込んでいます。しかし罪を犯した回数が1回であろうと100回であろうと、”真の神に対して背を向けて生活している以上”あなたは確実に、死後神からの罰を受けるのです。

あなたも救われなければならない一人の「罪びと」です。救われる必要がない、という人は一人もいないのです。

 

では、救われるために何をしなければいけないのでしょうか?

 

①罪の悔い改め

今まで犯してきた「悪いこと」を改めるのはもちろんですが、最も重要なことは「人生の方向転換」です。すなわち「『自分(あるいは人間)を基準(第一)として生きる』という間違った人生」を、「『唯一真の神(全ての被造物と聖書を通してご自身を啓示しておられる神)を基準(第一)として生きる』という正しい人生」に180度方向転換するということです。分かり易く言うなら「自己中心から神中心へ」ということです。

これがあなたが第一にすべき「罪の悔い改め」です。

 

イエス・キリストを自分にとっての「唯一の救い主」「人生のご主人様」として信じる

「罪の悔い改め」をしても「(過去の)罪の清算(つぐない)」がなされないといけません。「罪の清算(つぐない)」を自分(人間)の力ですることはできません。あなたがどれだけお金(代価)を払っても、心から謝罪しても、それでは罪は赦されないのです。

しかし、神はその愛の故、ひとり子イエス・キリストによって「罪の清算(つぐない)」をして下さいました。イエス・キリストは”人類の罪を背負って、十字架で神からの罰(本来、人間が受けなければならない罰)を身代わりに受けて”下さいました。

キリストがあなたのために死なれたことにより、「罪の清算」が完了したのです。ですから、あなたがこの事実を信じるならば「罪の赦し」を受けることができます。また、キリストは死後三日目によみがえられ「死」に勝利されました。あなたがこの事実を信じるならば、「(やがて来る新しい神の御国=そこでは、涙も悲しみも苦しみもありません。ただ神の愛と平和・喜びがあるのです=において)永遠の命」を受けることができます。

 

私たちがすべきことは、この2点だけです。他にはありません。「神に対する悔い改め」と「主イエスに対する信仰」これが全てです。

 

もしあなたが”心の底から”悔い改めて信じるならば、その時点であなたは全く新しい人へと変えられます(新生)。

その証拠として、以下のものが与えられます。

①神を愛する思い(聖書が全て神の御言葉であるという確信、聖書を読み、祈り、賛美し、従いたいという思い)

②人を愛する思い(この救いの喜びを、まだ知らない人に伝えたいという思い)

③今すぐ死んだとしても、天国へ行ける確信

④救いの喜び

⑤心からの平安

⑥生きる希望

⑦同じ信仰の友(クリスチャン)と交流したいという思い

 

なお、重要なのは聖書に従って生きることであり、宗教団体に加入する必要はありません。

聖書で語られる「伝道」「福音宣教」

「伝道」について間違った理解をしているクリスチャンが結構いますが、その理由は?

 

①クリスチャン一人ひとりが自分自身で聖書を読まないので、「伝道」とはどういう意味で、どうすることなのか分かっていない

②牧師が「伝道」について理解していないし、実践していないので、教会員に「伝道」について正しい指導ができていない

 

牧師を含めクリスチャンが、「伝道」に対してあまりにも無知あるいは無関心であるために、間違ったことがまかり通っています。

 

まず、「伝道」は教会(クリスチャン)の最重要使命です。神様は「伝道」はしません。それは信者に委ねられたことで、信者が果たさなければならない主からの「命令」です。神を愛する人はこの命令を守る責任があります。

伝道だけは、天国へ行った後で行うことは出来ません。祈りも賛美も天国へ行ってから、いくらでもできます。救われた信者が、(すぐに天国へ行かずに)この地上に残されている最大の理由は、福音を伝えるためです。

また、伝道は「人の(永遠の)いのち」がかかっています。一秒遅れたらアウトになる場合もあり「緊急事項」です。隣人を愛している、と言いながら伝道しない(他人の魂の救いに興味のない)人は、自分自身が救われていない可能性があります。救われていたとしても、「自分さえ天国に行ければ良い」と考えている冷たい人間です。

「キリストの福音」は例えるならば、死を待つしかない難病に対する「唯一の治療薬」です。自分がその治療薬を受けて癒されたのにも拘らず、同じ病気の人にその治療薬を(知っているのに)教えない人がいたら、相当自己中心で冷たい人間でしょう。

ただし伝道は、人に強制したり、強制されたりするものではありません。自分の信仰に応じて実践するものです。

 

聖書的「伝道」とは、

<A>「イエス・キリストの十字架(あがない)による、罪からの救いの知らせ」を

<B>「全ての人」に

<C>「伝える(教える・情報を提供する)」ことです。

 

<A>間違った例として、「教会の場所・集会内容を知らせる」「私はクリスチャンです、と証しする」・・・これだけでは「伝道」したとはいえません。また、「信じると病気が治る」とか「いいことがある」「仲間ができる」「あなたは愛されています」・・・これも的外れです。「イエス・キリストによる救い(いのち)」を伝えなければ伝道したことにはなりません。そのためには「罪の赦し」「死後の裁きからの救い」・・・つまり「罪」について「地獄」についても(語りたくなくても)語らなければなりません。ただ、「天国」とか「永遠の命」などの良いことだけ語るなら、かえって不親切です。

<B>それから、「親族・友人・近所の人だけ」に伝えてもだめです。文字どおり「全ての人」に伝えなければなりません(もちろん個人や一教会でできるようなものではありません)。同じ人に何回も伝道するのも“優先順位において”間違っています。福音を「聞いたことのない人に」伝えるのが先です。

<C>さらなる間違いは・・・よく、「言葉で伝えなくても親切な行い(無言の善行)をすれば、それが伝道です」と言われています。しかし、それは伝道ではありません。ただ単に「クリスチャンとしての当たり前の生き方」に過ぎません。「伝道」とは「(救いの道を)伝えること」です。口で言わなければ誰も分かりません(文書でも構いませんが)。そして、「伝える」ことが目的ですから、「伝えたら完了」なのです。多くの場合この点が問題(思い違い)となっています。「伝道」は人を「救う」ことではありません。もちろん救われることを願って行っているものですが、救うのは「神様の働き」であり、信じるのは「福音を聞いた人の自由選択」です。嫌がっている人を無理矢理「信じさせよう」として圧力をかけたり、しつこく勧誘するのはまちがいです。人間の努力や方策・熱心さで「救おう」とするのは、神様に対する「越権行為」です。救われて欲しいのはやまやまでしょうが、その気持ちは「祈り」に向けてください。

 

多少繰り返しになるかもしれませんが、「まず教会(堂)に連れてきて・・・」と考えないでください。「福音」は積極的に出て行って、聞いたことのない人に伝える必要があります。教会堂の中で、待っていてはいけません(その間に人はどんどん死んでいきます)。同様に、「(いきなり伝えるより)まず人間関係を築いてから」というのも違います。人間関係があれば話しやすいだけであって、救われやすくなる訳ではありませんし(もしそうであるならば、家族はもっとも救われるはずですが、現実にはそうではありません)、伝道するために無駄な時間・労力を費やすことになります(何年もかけて築いた人間関係・友人関係が、福音を語ったとたん切れることはよくあるケースです)。

それから、「伝道は教職者だけがすれば良い」というものではありません。捧げる時間や財力・頻度などは人それぞれ(信仰に応じて)ですが、全ての信徒がすべきことです(少なくともその心がけがないといけません)。

一人で全部語れなくても構いません(と言うか、普通そこまではできないでしょう)。ただ伝えるべき要点を忘れないようにしましょう。文書で構いません。そういう意味では、“きちんと福音が書かれた”トラクトを一枚渡せば「伝道完了」です。読まなくても(あるいは受け取りさえ拒否されても)、神様の前に伝道の責任は果たしたことになります(嫌がっている人に、内容を知らせることは不可能ですから)。

また、知恵を用いる必要はありますが、何かの規則によって「伝道禁止」されているからと言って、素直に「はい分かりました、やりません」では(神の前に)困ります。「人(の規則)に従うより神(の命令)に従うべきです」。厳しいようですが、このみことばが受け入れられないなら、神の国にふさわしくはありません。

 

「伝道(宣教)」は神の最重要(優先)命令であるのもかかわらず、教会(牧師・クリスチャン)はあまりにもこの働きに消極的です。「伝道」以外のことなら(神様から)言われていないことまで積極的にしますが、「伝道」に関してはどうしてもやりたくないようです。何故かと言うと、伝道は「犠牲(自分が損すること)」が大きいからです。もちろん天においての報いは大きいのですが、この地上においては損することのほうが多いでしょう。聖書どおりの伝道をしようとすれば、時間もお金もかかります。もし、結果として人が救われず、教会に人が集まらなければ、この世では、労力を浪費するだけの“報われない仕事”になります。また、行きたくないところ、伝えたくない人にも行わなければなりませんし、その人が救われない限り、通常喜んでもらえるものでもありません。むしろ「伝道」したために、親子兄弟・友人関係が破綻したり、猛烈な迫害を受けたり、嘲笑われたり、仲間はずれにされたり、(時にはクリスチャンと言っている人たちにさえ)変な目で見られたりします。

そんな目に会うのは嫌だから・・・伝道しないで、「伝道もどき」か「さほど重要でない、それ以外のこと」に没頭したりします。特に日本人は「人を恐れ」「周りの人と同じことをやっていれば大丈夫」と考えているので余計に伝道しません。しかし、どちらにしても、神は生前の行いを正しく裁かれるのです。主イエス様に会った時に「良くやった。忠実なしもべだ」と言われるか、「悪い怠け者のしもべだ」と言われるか・・・、自分次第です。

 

あと、地域教会(教団)でよく「開拓伝道(教会開拓)」なる言葉が使われ、行われますが、ほとんどの場合間違ったやり方がでなされています。

聖書的開拓伝道は「初めに伝道ありき」です。つまり福音を聞いたことがない人、伝えたことがない地域に対して、福音を伝え、その結果信じる人々が起こされていく中で、群れ(教会)が形成されていくのです。

しかし、伝統的になされているパターンは「初めに教会堂ありき」「初めに礼拝プログラム(定期集会)ありき」です。つまり、人々に福音を伝える前に、まだ信じる人がいなくても、どこかの地域で(牧師夫妻なりが)定期集会場所を備えて開始されます。中にはほとんど「伝道」をしないで、場所を構え牧師夫妻が定期集会をしているだけで「開拓伝道しています」と言います。

さらにこの伝統的パターンでは、開拓伝道を始める場所が、(表面的には「神様に示された」と言いますが)自分の願望に基づいています。分かりやすく言うと、福音が(あまり)伝わっていない地域・教会が存在しない地域は、地方や山奥の方など日本中にたくさんありますが、伝統的「教会開拓」は、そこには行きません。なぜならそんな田舎でやっても、教会が大きくならない(人数が増えない)可能性が大きいので、(損な役回りは)やりたくないからです。

一方、既にいくつもの(他教団の)地域教会がある都心部で、「教会開拓」を始めたがります。「たくさん人がいるところならば、たくさん教会も必要だ」と言い訳されますが、優先順位から考えれば、絶対的に不足している地方でやるべきです。しかし「大きな教会の有名な牧師」になりたがる人が多いので、信者が増える可能性が大きいある程度人口が多いところでやりたがるのです。

結局のところ、伝統的「教会開拓」は、○○教会というコミュニティーを形成する(地域教会を増やす)ことが目的で、人の魂の救いは二の次なのです(その証拠に、牧師が満足するある程度の人数の教会員が与えられると、伝道をほぼしなくなります)。