書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋②

以下の書籍の引用から、NAR(新使徒的改革)とその賛同者は、神の御言葉である聖書・キリストの福音よりも、人間の権威や霊感(不思議体験)に重きを置いていることが分かります。

 

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P25

NARは教団ではなく、組織でもない。統一された教理体系もない。あくまでも、ワグナー氏の考えに賛同し、自分は使徒だと名乗り、その使徒職が認められた人々を先頭にできたネットワークだ。主だった使徒として、ワグナー氏(2016年死去)の他に、ベテル教会のビル・ジョンソン氏、ハーベスト・インターナショナル・ミニストリーのチェ・アン氏、モーニング・スター・ミニストリーズのリック・ジョイナー氏、キャッチ・ザ・ファイヤー・トロントのジョン・アーノット氏がいる。

 

P26

ワグナー氏の考えによれば、使徒の覆い(支配下)に入った教会や個人だけが神の力を受け、この終わりの時代にあって神に用いられる。使徒を認めない教会は、「貧弱なキリスト教」と見下される。

 

P26

NARの使徒たちは、(中略)世界中の教会やクリスチャンに対して影響を及ぼすことを狙っているのだ。具体的に言うと、整えられた軍隊のようにクリスチャンを世に派遣し、様々な奇跡を起こすことによって世の人々に神の偉大な力を見せつけ、人間社会を変革し、イエス・キリストが再び戻って来られるように舞台を用意するということだ。

 

P27~28

こうして、町は市民の社会的運動や政治家に対する働きかけによってではなく、「霊的戦い」によって変革を遂げるという。

実際に、社会学に精通して、社会改善をもたらす具体的なプランや政策を持っている人などいない。犯罪率を下げるためにどうすれば良いか、貧困問題にどう対処すれば良いか、誰も考えていない。いざ、クリスチャンが政治的影響力を持つようになった場合、神が使徒たちに良い知恵を与えてくださるはずだと、彼らは堅く信じているのだ。

 

P29

NARのビジョンに共鳴する若者が多い。その一つの理由として、「使徒」や「預言者」の力強いメッセージによって、安心感が得られるからだ。

(中略)

彼らは、自分の代わりに考え、判断し、責任を持ってくれる宗教団体に魅力を感じるのだ。自信が持てないために、権威をもって単純な説明や回答を示してくれる宗教団体には非常に弱い。神の権威を主張して、「これが絶対に正しい」と宣言する使徒預言者)がいれば、その言葉に飛び付くのだ。

書籍「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント」より抜粋①

ウィリアム・ウッド師が書かれた「日本の教会に忍び寄る危険なムーブメント NARに関する警鐘を鳴らす」を是非読んでいただきたいので、一部抜粋します。

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P12

 礼拝の最中に、突然、天井から金粉らしき物が降って来た。2011年11月13日に、アメリカのカリフォルニア州レディング市にあるベテル教会において、実際に起こった出来事である。驚いた礼拝者たちは、「神の栄光の現われだ」という説明を聞いて、興奮しながら歓喜の声を上げた。ところが、礼拝者の中には不信に思った人もいて、「金粉」を集めて顕微鏡で調べると、金粉ではなく、ホビー・ショップで購入できるマーサ・スチュワート社のgold glitter(金のラメ・パウダー)であったことが判明したという。

 

P13~14

 ジョイナー氏はモーニング・スター・ミニストリーズ内で絶対的な権威を持っており、その語る言葉は聖書と同等のものとして受け止められる。元教会員の証言によると、礼拝のメッセージは、聖書からのものではなく、ジョイナー氏の受けた「啓示」が中心だそうだ。だから、教会に聖書を持って来る人はいない。皆、ジョイナー氏をモーセのような存在と見なし、彼の指示や助言に頼るようになる。ある時、新来会者が現れて、礼拝前に聖書を開いて読んでいると、二人の体格の良い警備員によって強制的に退場させられた、とのこと。

 

P15~16

 ベテル教会内にBethel School of Supernatural Ministry(ベテル超自然的ミニストリー学校)がある。世界の64カ国から集まった2千人余りの生徒たちは、ここで奇跡を行う技術を身につけている。(中略)キリストと同じ奇跡を行うことができると教育されている若者は、学校の壁に体当たりする実験を何度も繰り返している。復活された後のキリストは、カギのかかった部屋に突然現れたり消えたりしたと聖書に書かれているので、自分たちも壁を突き抜けることができるはずだと考え、その練習をしているという。

 

P17

 何とも異様な光景である。若者たちは、偉大な功績を残して天に召されたクリスチャンの墓石にしがみついて、祈りを捧げている。地面に顔をすりつけて、口で何かを吸い上げようとしているように見える人もいる。彼らは、信仰の先輩の上にあった「聖霊の油注ぎ」を自分のものにしようとしているのだ。

 

(参考資料:ウッド師の書籍とは直接関係ありませんが、以下のYouTube動画で、この「異様な光景」を見ることができます。字幕設定で、日本語を選択してください。)

 

 

P18~19

 アメリカの南カリフォルニアにあるメガ・チャーチを牧会する「使徒」が礼拝のメッセージの中で、次のような証しをしていた。

「先日、ある人が私のところに来て、高額の献金を渡しました。最初は、こんな大金をもらう訳にはいかないと思い、断ろうとしましたが、彼はこう言うのです。『あなたは私の使徒です。これをどうしてもあなたに捧げたいのです。』そこで、私は使徒の働き4章34~35節にある聖句を思い出しました。『彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである』。私はこの聖句の通りに、彼の捧げ物を受け取ることにしたのです」

 しかし、会衆の中に、この「証し」に違和感を覚える男性もいた。「あなたがたも、初代教会の忠実なクリスチャンたちのように、使徒である私に対して、同じようにしなさい」と言われているように感じ、思わず立ち上がって言った。

「その話って、ちょっとおかしいんじゃないですか」

 すると、「使徒」が厳しい口調で、「あなたは秩序を乱す者だ」と言った。次の瞬間、二人の警備員が男性の腕をつかみ、強制的に教会の外に連れ出したという。

カトリック教会が存続する理由は、神様がカトリックを「正しい」と認めたからではない

ローマ・カトリック教会が今も存在するのは、神様がカトリック教会を正しいと認めているから、と勘違いしている人たちがいるようです。

 

その理論で行くと、「ものみの塔」「モルモン教」「統一協会」が消えて無くならないのは、神様がそれらを正しいと認めているから、ということになります。

 

カトリック教会に限らず、「長く続いている」ことと「神の御前に正しい」こととは、何の関係性もありません。

また、「組織の大きさ(所属者・集会参加者の人数)」も同様です。集会の規模は、その集まりが「神の御前に正しい」と判断する根拠には、全くなりません。

 

正しいかどうかの判断基準は、「世間一般の支持率」「この世での成功」・・・などではなく「神の御言葉である聖書の教えに適合しているかどうか」です。

 

では、聖書の教えに全く逆らっているカトリック教会の存続理由は何でしょうか?

 

①何があろうとついて行くと心に決めた、バチカンの熱狂的信者がいる

自民党オウム真理教が悪行三昧やっても支持し続ける人がいるように、カトリック教会が悪行三昧やっても「変わらず支持し続ける人」が一定数います。

今でも、膨大な数の児童への性的虐待(&組織的隠蔽)が世界中で起こっていますが、被害を直接受けていない人たちにとっては、「さほど気にすることではない」のでしょう。


②地域との癒着
町ごと、州ごと、国ごとカトリック化しているので、今更その文化から離れられないようです。


③引き止め工作・改革パフォーマンスの成功
神様に対しては罪を悔い改めていませんが、世間に対して罪を認め、不都合な教義は表面上、引っ込めました。


④新しい信者の獲得
カトリック教会は昔から異教を巧妙に取り込んできましたが、さらにヒューマニズムへと拡大し、世の中の人のニーズに合わせるようにしたため、人々が入信しやすくなりました。


⑤幼児洗礼による信者獲得
カトリック家庭の赤ん坊に洗礼を授けることで、信じていなくてもカトリック信者にすることができます。

 

・・・間違った判断基準により、滅びを招かないようにしましょう。

いろんなイエス・キリスト・・・聖書とは違う「別のイエス」

私たちを愛し、永遠の命を与えると約束してくださった本物イエス・キリストは、“聖書に書いてある通りの”主イエス・キリストです。

そして、聖霊なる神様が「新生」体験を通して、その真実を保証してくださいます。

 

しかし、その主イエス様とは違う「別のイエス・キリスト(同名異人)」を信じ教えているグループが存在します。

「私たちはイエス・キリストを信じています」とか「私たちはクリスチャンです」などと自称していますが、彼らの信じるイエスは聖書のイエス様とは違う「類似粗悪品」なので、騙されないように気を付けなければなりません。

 

 <イエス・キリスト

カトリック・イエス・・・聖書ではなく聖伝に基づき、ローマ・カトリック教会バチカン)が教えるイエス

唯一の救い主ではない。人間マリアより実質格下。正義はなく、悪も異教オカルトもそのまま許容する(信じなくても救われる)。時代と共に性質が変貌する。実際のパンとぶどう酒に何回も変身し、信者に食べられてしまう。

エキュメニカル・イエス・・・聖書ではなくヒューマニズムに基づき、プロテスタントエキュメニカル派が教えるイエス

唯一の救い主ではない。神の愛ではなく人間的馴れ合いを説く。正義はなく、悪も異教オカルトもそのまま許容。

リベラル・イエス・・・聖書ではなく啓蒙思想や科学・理性・この世の常識に基づき、プロテスタント内リベラル派が教えるイエス

神ではないただの人間。処女降誕もせず、復活もせず、奇跡も行わない。

モルモン・イエス・・・聖書ではなくモルモン書に基づき、末日聖徒イエス・キリスト教会(ジョセフ・スミス)が教えるイエス

もともと人間だった神々の一人。

ものみのイエス・・・新世界訳という改ざん聖書・組織の出版物に基づき、ものみの塔聖書冊子協会(エホバの証人)・統治体が教えるイエス

神によって造られた被造物で、大天使ミカエル。

ジャパニーズ・イエス・・・聖書ではなく日本書紀古事記ユダヤ教神道に基づき、原始福音キリストの幕屋(手島郁郎)が教えるイエス

宗教混合のエキュメニカル・ニューエイジ神。

 

・・・以下の聖書の警告に耳を傾けましょう。


Ⅱコリント11:4

というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。


Ⅱコリント11:13~15

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。彼らの最後はそのしわざにふさわしいものとなります。

 

ガラテヤ1:6~9

私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

いろんなクリスチャン

「クリスチャン」と言ってもピンからキリまでいますが、あなたはどんなクリスチャン(になりたい)ですか?

 

真のクリスチャン:聖書に書いてある通りに信じ、日々神様に従おうと努めている

 

名ばかりクリスチャン:幼児洗礼などで、本人の信仰と関係なくキリスト教徒になってしまった

 

自称クリスチャン:(たとえ信じているとしても)正式な洗礼を受けていない

 

似非クリスチャン:聖書の言葉をほとんど信じていないくせに、ウソの洗礼を受けた(リベラル派、異端)

 

なんちゃってクリスチャン:そこそこ教会に通ったりはしているが、いいかげん、不真面目

 

たぶんクリスチャン:救いの確信がない

 

にわかクリスチャン:自分の意志で信じ、受洗したが、短期間であっさり信仰を捨てた

 

サンデークリスチャン:日曜日のひと時だけクリスチャンになり、他の日は世の人とほぼ同じ生き方をしている

 

クリスマスチャン:クリスマス(時期)のみ教会に現れる

 

クリスチャンもどき:趣味としてキリスト教や教会・聖書が好きなだけで、未洗礼

 

クリス赤チャン:信じた後、何の成長もしていない

 

<補足>

記事の主旨は、誰かを断罪することではなく、各人が自分の現在の信仰を見つめ直すこと。

・・・全ての人が「忠実な主のしもべ」へと変えられ、成長していくことを願います。

礼拝賛美において気を付けるべきこと

 

賛美曲の歌詞の意味を理解する

特に古い文語体の「讃美歌」「聖歌」などを歌う時、多くのクリスチャンが歌詞の意味をよく理解しないまま歌っているようです。

それらの曲の一部は現代訳されたりもしていますが、なお古い翻訳にこだわっている人もいます。

もとから現代語である「プレイズソング」「ワーシップソング」と呼ばれる賛美曲を用いれば問題ないですが、もし何かの理由で文語体の曲を歌おうとするならば、最低限、歌詞の内容を理解(説明)してからにすべきです。

形骸化した、”何となく”歌っているような賛美を神様は喜ばれないでしょう。

 

告白している歌詞を実践する

「 ♪~信じます」「♬~従います」「♩~宣べ伝えよ」・・・などの歌詞を歌いながら、普段の信仰生活において、まったくそうしているように見えない信徒がたくさんいるようです。

自分の口で歌っておきながら、その告白している歌詞は他人事のようで、これでは歌うたびに神様の前に嘘をついているようなものです。

 行いの伴わない信仰は、死んだ信仰であることを肝に銘じる必要があります。

 

「賛美」の本質を理解する

 賛美とは、神様をほめたたえること(もの)なので、別に歌・音楽でなくても良いのです。しかしいつの間にか「賛美」≒「音楽」のように捉えられていて、神様をほめたたえることより、音楽を(自分のために)楽しむことがメインになっているケースがあるようです。

聖霊様の臨在はあってほしいですが、「自分(人間側)が満たされる」ことは、賛美の本質から考えると重要ではありません。賛美の結果として臨在があり、満たされることは良いですが、自分が満たされることが目的になっていないか、注意が必要です。音楽には十二分に快楽的要素がある点を忘れてはいけません。

 

ある牧師は、教会で(信者の)誕生日会があるたびごとに「~それでは、〇月生まれの〇〇さんのために『ハッピーバースデー トゥー ユー』を賛美しましょう」と言っていました。

私が2度ほど「ハッピーバースデー~」は賛美(曲)ではありませんよ」と諫めましたが、一度だけ改めただけで、その後も「ハッピーバースデー~を賛美」と言い続けました。

残念ながら、その牧師にとっては「賛美」とは神様をたたえることではなく、単に「歌を歌うこと」程度の意味しかなかったようです。

異教徒は地獄行き、と神は、ほんとうに言われたのですか?

最近よく聞かれるのが、「聖書に〇〇と本当に書いてありますか?」「イエスは本当にそう言われたのですか?」という言い回しです。

 

例えば、

聖書に「異教徒は地獄行き」と本当に書いてありますか?

聖書に「座禅を組んで瞑想してはいけない」と本当に書いてありますか?

聖書に「ヒューマニズムは罪」と本当に書いてありますか?

エスは本当に「同性愛は罪」などと言われたのですか?

 

この質問に共通する“狙い”は、罪や罰の否定であり、受容です。つまり、

「異教徒のままでも天国に入れる」

キリスト教に、座禅などの異教行事を取り入れても良い」

ヒューマニズムによる一致運動(エキュメニズム)は良い」

「同性愛を改めなくてもクリスチャンになれる」

と主張したいわけです。

 

創世記の蛇(サタン)にそっくりです。


創世記 3:1

さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」

 

これらの主張をする人々に、いくつかの聖句を上げてみせると、「『いきょうとはじごくいき』『どうせいあいはつみ』とは(そっくりそのまま)書いていない」とか「その時代の〇〇と現代の〇〇とは意味が違う。似ているだけ」というような屁理屈をつけてきます。

 

そもそも聖書に、いちいち時代・地域・文化等に合わせた用語を用いて、あれはダメこれは良いなどと個別には書いていません。

「おうむしんりきょうににゅうしんしてはいけない」

「えんじょこうさいはつみ」

「いんたーねっとで、あだるとどうがをみてはいけない」

 

・・・文字通りそう書いてなくても、聖書全体を読み、聖霊様によって神様のみこころを知っていれば、何が良いか悪いか、判別できるのです。

 

サタンとその従者の「誘惑」に騙されないようにしましょう。