「十分の一献金」の間違いについて

現代のほとんどのプロテスタント教会で、(半ば強制に近い形で)推奨される「十分の一献金」は、本当に聖書的な教えでしょうか?

 

皆さんご存知のように、聖書には「旧約」と「新約」があります。旧約の教えの中で、新約においても引き継がれている教えはあります。しかし、終わった教えもあります。それは新約聖書に一度も出てこない教えであったり、イスラエル民族に対する教えであったりします。

 

さて、「什一(収入の十分の一)献金」という教えは、旧約聖書には何箇所か出てきますが、新約聖書で引き継がれているでしょうか?

 

新約聖書で「什一献金」が勧められている箇所は、おそらく次の聖句だけでしょう。

 


マタイ23:23

わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは、はっか、いのんど、クミンなどの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実を、おろそかにしているのです。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もおろそかにしてはいけません。


ルカ11:42

 だが、わざわいだ。パリサイ人。おまえたちは、はっか、うん香、あらゆる野菜などの十分の一を納めているが、公義と神への愛はなおざりにしています。これこそしなければならないことです。ただし、十分の一もなおざりにしてはいけません。

 

 

この二つは「並行記事」で基本的に同じことを語っています。たしかにここでは、イエス様ご自身が「十分の一」の献げものの大切さを説いています。

 

 

ところで話を戻しますが、「旧約」と「新約」を分ける際に、それは「旧約聖書に書かれていること」と「新約聖書に書かれていること」を意味しない場合があります。

 

厳密には「旧約時代(古い契約に基づいて生きる時代)」とは、キリストの十字架による贖いが完成する前の時期、であり、「新約時代(新しい契約に基づいて生きる時代)」とは、キリストの十字架による贖いが完成した後の時期を指しています。

 

「キリスト十字架」以降に、什一献金の教えはありません。前述した教え(マタイ23:23、ルカ11:42)は、旧約時代(キリスト十字架前)の守るべき教えとして、イエス様がイスラエル民族に対して言った言葉です。

 

同じケースが以下の聖書箇所でしょう。

 

マタイ 8:2~4

すると、ツァラアトに冒された人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに彼のツァラアトはきよめられた。イエスは彼に言われた。「気をつけて、だれにも話さないようにしなさい。ただ、人々へのあかしのために、行って、自分を祭司に見せなさい。そして、モーセの命じた供え物をささげなさい。」

 

マルコ 1:40~44

 さて、ツァラアトに冒された人がイエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私をきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」すると、すぐに、そのツァラアトが消えて、その人はきよくなった。そこでイエスは、彼をきびしく戒めて、すぐに彼を立ち去らせた。そのとき彼にこう言われた。「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。ただ行って、自分を祭司に見せなさい。そして、人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい。」


ルカ 17:12~14

 ある村に入ると、十人のツァラアトに冒された人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と言った。イエスはこれを見て言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中できよめられた。

 

 

「キリスト十字架」以降、献金に対する教えは、以下のものです。

 

Ⅱコリント9:7

 ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 

 

多くの牧師が不勉強によってこのことを理解していないか、知っていても献金が減ると自分の生活が危うくなるために、「什一献金」を重要な教えとして、信徒に半ば強制しています。

 

ちなみに、献金は所属教会(或いは礼拝出席教会)に献げなければいけない、という教えも聖書にはありません。

まぁ、お世話になっていたらそこに献げるのは筋でしょうが、そうしなければならない訳ではありません。

 

そもそも献金は神様への感謝で、神様に献げられるべきものです。所属地域教会が、献金を無益なものに使っているならば、そのような教会に献げる必要はありません。

むしろ、忠実な宣教団体に直接献げた方が、神様は喜ばれるでしょう。