エキュメニズムは、現代のバベルの塔(大バビロン)

聖書が語り、神様が命じる一致は、聖霊」による一致です。
エペソ 4:3に「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」と書いてあるとおりです。

 

一方、世の終わりになって盛んになっている、カトリックエキュメニカル派が語る一致は、ヒューマニズム(人間、この世が中心・基準)」による一致です。

彼らは「節操がない不誠実なこと」を「寛容」と詐称し、「馴れ合い」を「愛」と自称しています。

彼らは聖書の「絶対者」「審判者」「完全なる正義」である神様、「唯一の救い主」であるキリストを否定します。自分たちの願望に合わせて、聖書の中から都合の良い箇所だけ信じ、都合の悪い箇所を否定します。

 

彼らが信じているのは、「罪を裁かない(不正な)神」、「悔い改めなくても悪を許容してくれる神」、「世界中にたくさんいる救い主のひとりとしてのイエス・キリスト」なのです。

 

聖書の教えを踏みにじっておきながら、なぜか「キリスト教」という名称だけは欲しいようですが、「キリスト教」という名称が、ブランド・ファッションとしてそれほど魅力があるのでしょうか?・・・答えはガラテヤ1:6~7にあります。

 

「私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」

 

続く8~9節には、こう警告されています。

「しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。」

 

神の御言葉ではなく、自分たちが考え出した(聖書に反する)伝統に従っている者に対して、主イエス様ご自身も厳しく叱っています。


マタイ15:1~9
 そのころ、パリサイ人や律法学者たちが、エルサレムからイエスのところに来て、言った。「あなたのお弟子たちは、なぜ長老たちの言い伝えを犯すのですか。パンを食べるときに手を洗っていないではありませんか。」
 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「なぜ、あなたがたも、自分たちの言い伝えのために神の戒めを犯すのですか。は『あなたの父と母を敬え』、また『父や母をののしる者は死刑に処せられる』と言われたのです。それなのに、あなたがたは、『だれでも、父や母に向かって、私からあなたのために差し上げられる物は、供え物になりましたと言う者は、その物をもって父や母を尊んではならない』と言っています。こうしてあなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。

  偽善者たち。イザヤはあなたがたについて預言しているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

 

<「の言葉・教え」ではなく、「この世の言葉・人間の教え」によるヒューマニズム一致運動が、バベルの塔の罪>


創世記11:1~9

  さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。
  そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」
 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」
 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。

 

神様が望んでおられるのは、この世の言葉・人間の教え(エキュメニズム)による一致ではなく、神の御言葉であるイエス・キリスト(聖書)及び聖霊に基づく一致です。