「踏み絵は偶像にすぎないから、踏んでも良い」「絵踏みしないことは、偶像礼拝に当たるので、むしろ踏まない方が罪だ(つまり、踏むべき)」と言う人が、「キリスト信者」を自称する人の中にもいます。
しかし、踏み絵の論点は「信仰告白(あなたはキリストを信じているのか?)」であって、偶像云々ではありません。
絵踏みは、人々が「キリスト信者か否か?」を聞き出す(キリスト信者を発見する)ことを目的としており、「板(絵、像)を踏めるかどうか?」ではなく「あなたは、キリストの御名を踏みにじることができるか?」と問うているのです。
マタイ10:33
しかし、人の前でわたし(=主イエス・キリスト)を知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。
ですから、もし「”偶像だから”私は容赦なく踏みます」と考えている人がいたら、その人は同時に「私はキリストを信じています」とはっきり告白すべきです。「キリスト教徒は拷問にかけて殺す!」と言う権力者の前で。
(そもそも初めからキリスト信者であることを告白していれば、絵踏みなどやらされることはないのです。もちろん迫害や拷問などの目に遭います。)
その告白もせずに、黙って踏み絵を(偶像だから)踏むならば、その人は偶像礼拝論にすり替えて、実はキリストのゆえに迫害されることを恐れていただけなのです。
「心の中ではキリストを信じていたから(形だけ、絵踏みをしても)大丈夫」とは思わないでください。
人の心は、言葉(口)に表れ、態度にも表れます。
口にも出さず、行いにも表れない「心の中だけの信仰」は、死んだ信仰です。
ローマ10:9~10
なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
ルカ6:45
良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。
ヤコブ2:19~26
あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。
信仰は見えないようで、実は(その人の言動を通して)傍から見えるものなのです。